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○|○|日記館

夢でおならを踏むような噺
…とは程遠い、生活感あふるる自分語り

 
2013-05-31

芸に生きるひとを見た

カテゴリー: 日記
先日より、とあるかたのお手伝いに行くことになりました。

初めはボランティア募集というかたちでそのかたを知ったのですが、ボランティアとはすこし違う気もするので、お手伝いです。

そもそもボランティア、というものにわたしはあまり興味がなかった。
というか、「人の役に立ちたい」「人の助けになりたい」という気持ちが自分の中に少しばかりあったとして、……あったとして、じゃないな。あります。たしかにどこかあるのです。が。

まずそれはただ自己の承認欲求を満たしたいだけなのではないのかしら、と感じていることに嫌悪するのと、これまでわたしはわたし自身が生きることだけで手一杯だと思い込んでいたこと。あとはまあとにかく新しいことを始めることにすごく臆病でとにかく面倒くさがりなので、これまであまり縁のなかった、というか、機会はいくらでもあるけれど、避けて通ってきた世界です。


そのかたは、とある芸事を生業としているかたでした。
いくつかの賞を獲り、真を打ち、これからを期待されている最中だったそうです。再起不能と宣告され、日常生活もままならぬところから奇跡の高座復帰を果たすまで、並々ならぬ苦労があったことは容易に想像できますが、それがどれだけのことなのかは想像を絶します。

プロフィールを知り、彼の抱える障害についてを知り、その厳しさと絶望のなかからどのように這い上がってきたのかを断片的にでも知ったことで、人間の生きようとする力を強く感じ、揺さぶられたのです(こう書くとなんだか安っぽい言葉になってしまって不本意ながらも、うまく言葉で表せないのがほんとうにはがゆいですが)。

だから、自分の中ではボランティア精神とはだいぶちがうのですね。
「このひとだからこそ」という思いです。


先日お会いして、お話しをしているなかでなぜこの世界に入ったのかという質問をしました。すると、

「今だと若いひとがよく“自分探し”なんて言うでしょ、ぼくもそうだったんでしょうね。そのとき、この芸に出会いました」

と話してくれました。

わたしはそれを聞きながら、じつはこれまで小馬鹿にしていた“自分探し”という言葉、この言葉の持つ意味合いがこの一瞬にして変わり、(わたしももっと早くに探しておけばよかったな、見つかるにしろ見つからないにしろ……)などとおもっていました。

が、もしかしたらこれはこれわたしはわたしで、自分という駒を少し動かしたのかもしれないといまは感じています。


お手伝いの内容は、彼のお師匠さんの芸が録音されたカセットテープを、障害のある彼にも、そしてそれ以外のひとが見てもわかるような一覧表にまとめるという作業。

ご本人以外が見てもわかるように。つまり、こちら側からみるとすごく切ないことですが、彼はご自分の最期と、その先へ残すものを見据えているのでした。

わたしは昨年、冗談みたいに立て続けに両親を亡くし、そのとき精一杯の看取りをしたつもりではありましたが、そんなのはわたしがそうおもわないとやっていけないからというだけで、絶対にまだできることがあったのだと後悔することは山ほどあります。そうおもいながらいまだ中途半端にほったらかしていることも。

このお手伝いをその代替にしようなどとはこれっぽっちもないつもりですが、そうしたお話を聞くとやはりそこにはなおのこと自己欺瞞があるような気がしてなりません。それでも、手を挙げずにはいられなかった。




ところで、ヘルパーさんというお仕事は、仕事・芸事に関しての補助はしてくれないということも初めて知りました。

だからわたしなんかはもうそんな「どこそこから派遣されて参りました、規定に添ってお仕事いたします」ではありませんから、なんでも言ってくださいね、それこそ、弟子でもとったつもりで!

とはりきって言ったところ、

「もう弟子はとりませんよ。この芸も、もう大衆芸能じゃなくなりましたしね」

と笑いながらおっしゃいました。

古き良き時代というものに想いを馳せ懐古すること、わたしも好きなほうなのですが、そんなのはただの自己満足でしかなくなんの意味も価値も感じません(そもそも“古き良き時代”ということ自体が怪しいとおもってます。本当に“良き時代”だったのか)。

けれど、このときのその言葉は一生忘れないだろうとおもいます。