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○|○|日記館

夢でおならを踏むような噺
…とは程遠い、生活感あふるる自分語り

 
2014-05-11

ささみと読書

カテゴリー: 日記
近所に業務スーパーができて一年ほど経つのか。最寄りのスーパーがそこということになったのだけれど、買い物は仕事帰りに済ませたいわたしにとっては駅前の深夜までやっているスーパーのほうが勝手がよく、業務スーパーには数えるほどしか行ってない。閉店時間も早いし、でかいじゃん。なにかと。おかげで半ひきこもりの同居人が買いだめした食料で冷蔵庫がパンパンになることが多い。まあこれは以前から変わらないけれども。

今日は気が向いてちょいっと行ってみた。安いものと高いものがバランスよく置かれているので、なにが欲しいってわけでもないまま買い物のすべてをここで済ませようとするとすごい散財になる。山のようなささみが800円弱だったけどほんとこんなにいらないとおもいつつ買ってしまう。



大葉とチーズはさみ焼き。サッと湯引きするなりしてわさび醤油なんかで食べればいいのにそこはまあ太った人の嗜好なので。こんだけ作って力尽き、つけあわせなぞ添える気力もなくなりあとは河童のようにきゅうりをそのままボリボリ食べた。




先日、末廣亭で主任をとっていた伯楽師匠が手売りしていた「小説・落語協団騒動記」を読み終えいま読んでいるのは伯楽師の師匠である金原亭馬生についてゆかりあるひとらが語った「十代目金原亭馬生 ――酒と噺と江戸の粋」。
協会分裂の際に副会長をつとめていたのが馬生で、さらには実弟であり当時落語会のスター、いまでも名人として名高い古今亭志ん朝が協会から引き抜かれるかたちだったわけなので、それを弟子としてそばで見ていた伯楽の騒動記にも当然そのときの馬生の様子が強く描かれている。なので、次に読む本はこれだとすぐにアマゾンで買っていた。

わたしはこの馬生がとても好きなので、本の帯にまで「再評価」とバッチリ書かれているのがやや腹立たしい(評価する者とは誰か?という上から目線のようなもの、つまり評価する側の人々から評価されていない、評価が低い期間があると認めていることになるため、少数であっても途切れずにいるはずであるファンをないがしろにする言葉に感じる。ただ「再評価」という単語がすでにひとり歩きしているため、それでしか表せられない書き手の頭の悪さかあるいは驕りが見えるようで嫌いだ)。しかし志ん生を父に、志ん朝を弟にもつ馬生は比べて扱いが薄いようだとは確かに感じる。本人があまり前へ前へと出たがる人でもなかったようだが、やはりもっともっと見たい聞きたいという気持ちはある。この際もう再評価でもなんでもいいのか出してくれるなら。

様々な人(弟子だったり娘である池波志乃・中尾彬夫妻だったり)が馬生について語るのだが、そのなかで新宿末広亭の席亭が現在の噺家をあげて「隅田川馬石や二つ目の金原亭馬治が時々、先代馬生ソックリになるそうで」と書いてあったのを見てちょっとびっくり、とてもうれしくなった。どちらも好きな噺家だ。ソックリかどうかを見分けられるほどのツウではないのだが、馬石は細身のわりに手が大きく、着物の袖からスッと長い指が出たとき「あっ」とおもうほど魅力的で、馬生もそういうところがある。そして馬治さんはまだ二つ目で同年代でもある。これから彼が真打になり芸が円熟してゆくまで、わたしがこの先ずっと落語を好きでいるならば30年はこえるであろう長いつきあいになるなあと、ワクワクする。おなじ世代に生きる噺家を応援できるというのが、うれしくてたまらないのだ。本当は応援じゃなく贔屓にすると言いたいけどそこまで粋にはできるかどうか。

先代馬生は昭和57年に54歳の若さで亡くなった。噺家で54歳はほんとうに若すぎるとおもう。かといって、生きていてもわたしがこの歳で落語を聞き始めるまで待ってもらえていた可能性は少ないだろう(そういう意味では、川柳川柳に間に合って本当によかった)。名人といわれるひとの芸を動画や音源で見聞きして、自分がその時代その場にいられなかったことを悔やんでしまうことがあるが、名人の名演だけを愉しむというのはただの一興に過ぎないのだなと、底なし沼のようなものすっかり足を取られてしまっている。
五月の上席、末廣亭は立ち見が出るほどだったそうだ。歌丸師匠の高座復帰だったからというのもあるんだろう。人はどんどん死んでゆく。やはり焦る。