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ともだち塾の文芸日記

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2009-03-14

自殺は裏切りか?

カテゴリー: 日記
 石持浅海のミステリィ「セリヌンティウスの舟」を読んだ。

 嵐のなかで生き延びて、連帯感を感じた6人のダイバーの一人が自殺した話。

 私は、どんなことがあっても生きることが大切だと思うけど、この作者はそれを巧みに避けている。
 ミステリィとしての読後感はいいのだけど、自殺に焦点をあてて考えると、うーんと思ってしまう。

 あとあとまで考えさせられるというのは、ミステリィとしては成功だろう。
2009-03-14

いるか

カテゴリー: 日記
  いるか   谷川 俊太郎

いるかいるか
いないかいるか
いないいないいるか
いつならいるか
よるならいるか
またきてみるか

いるかいないか
いないかいるか
いるいるいるか
いっぱいいるか
ねているいるか
ゆめみているか


 谷川俊太郎は、1931年生まれの日本の代表的な詩人。子どもの詩だけでなく、大人むけの詩もたくさん書いている。
 谷川の詩は、「生きる」に代表される、人間を正面からとらえようとする作品から、「いるか」や「かっぱ」などの、ノンセンス詩といわれる作品や、生きる意味を問いかけてはいるがユーモラスに書いている「うんこ」などがある。
 子どもの詩を語るとき、谷川さんをはずすわけにはいかない。
 谷川の詩は、ユーモアのなかに、鋭い人間洞察が含まれている。

 この詩の中に、イルカ(動物)は何頭いるか。
 それぞれの行の〈いるか〉をどう見るか、つまり動物のイルカと見るか、「居るか」と存在を聞いているのかということで、頭数が変わってくる。
 題名のも含めて、十三頭というのが、最大の頭数だ。
 そして最後は、イルカは一頭もいないということにまで、なってしまう。
 動物のイルカと、存在の「居るか」が、ないまぜになって区別がつきにくく、あいまいな感じだ。

 だけど、楽しい詩ではある。
 子どものために書かれた詩には、読んで楽しい詩がたくさんある。思わずクスッと笑う詩、ニヤリとしてしまう詩、ことば遊びのような詩などがある。

 この「いるか」という詩のあいまいさについて、もうすこし考えてみたい。
 あいまいさを楽しむ、ユーモラスな詩ということが一つと、そのあいまいさが、イルカの実態を現しているということだ。
 イルカは、群れをなして水中から水面へ、スイスイスイスイと、流れるように飛ぶように、どれがどのイルカやら、区別もつかず数も数えられず、泳ぎまわっている。
 人間に捕まって、水族館などで飼われているイルカは別だが、泳ぎまわるイルカの数を明確に見ようとしても、なかなかわかるものではない。
 この詩のあいまいさは、そういうイルカの実態を現しているように思える。
 そのあいまいさ不明確さこそが、実態を明確にあらわしている、と読むのは深読みだろうか。
2009-03-15

真心

カテゴリー: 日記
  真心   黒木 瞳

あなたのために
心をみがいている

ほんとうの私を
あなたに知ってもらいたいから

一点の曇りもないほどに
私の心をみがいている

嘘がつまった体を捨てて
ほんとうの私に戻ったら

あなたに伝える
私の真心



 女優の黒木瞳が書いた詩。
 黒木瞳は、詩集「長袖の秋」「夜の青空」やエッセイ集「わたしが泣くとき」などを刊行。

 この詩は、恋の詩か。
 恋ということばも、愛ということばも出てこないが、〈一点の曇りもない〉心を、〈あなたに伝え〉たいと言うのだから、〈ほんとうの〉〈私の真心〉を〈あなたに伝え〉たいと言うのだから、恋の詩と思いたい。

 生きていくうえで、〈一点の曇りもな〉く〈嘘がつまった体を捨て〉ることができるか?
 恋とは、そんな不可能にみえることをしてまでも、〈あなたに伝える〉ために、〈私の心をみがいてい〉くものなのだ。
 恋とは不思議なもので、相手がいてはじめて起こることなのに、自分のことも、はじめて見るような思いになってしまう。
 そして、相手のことを知りたいのと同じように、いやそれ以上に、自分のことをわかりたいと思う気持ちが深まってくる。

 子どもたちが、自分をみつめる、という思いをもちはじめるのには、いろんなきっかけがあるだろうが、誰かに「恋」をする、という時がいちばん多いのではないだろうか。

 この詩は、3連が、1連のくりかえしに、4連が2連のくりかえしになっている。1連と2連のつながりも、3連と4連のつながりに、くりかえされている。
 これらのくりかえしが、それぞれに発展して、くりかえされてもいる。
 1連のあとに3連があっても、2連のあとに4連があってもおかしくはない。
 しかしこの詩は、くりかえしが輻輳しているので、イメージが重なる。

 この詩には、対比はあるか。
 話者が、心に曇りがあると思っているイメージがあるし、体に嘘がつまっていると思っているイメージもあるす。だから今は、あなたに伝える真心がない、と思っているイメージにつながってくる。
 そのことは、この詩のなかには、書かれてはない。書かれてはないが、イメージとしては、そのように対比的に感じられる。

 さて、その話者だが、女性だろうか、男性だろうか。作者が、女優の黒木瞳だから、話者も女性と思ってしまうが、この詩の話者が男性であっても、すこしもおかしくはないと思う。
2009-03-16

結婚

カテゴリー: 日記
  結婚   新川 和江

呼びつづけていたような気がする
呼ばれつづけていたような気がする
こどもの頃から
いいえ 生まれるずっと前から

そして今 あなたが振り返り
そして今 「はい」とわたしが答えたのだ
海は盛りあがり 山は声をあげ
乳と蜜はふたりの足もとをめぐって流れた

ひとりではわからなかったことが
ふたりではわけなく解ける この不思議さ
たとえば花が咲く意味について

はやくも わたしたちは知って頬を染める
わたしたち自身が花であることを
ふたりで咲いた はじめての朝



 新川和江は、1929年生まれで、詩作のほか、再話・伝記・海外児童文学の紹介などされている詩人。主な詩集に「野のまつり」がある。

 「結婚」は、中学生以上の子どもたちに、ぜひ読んでもらいたい詩だ。
 いま、子どもたちのまわりには、劣悪な性情報があふれている。
 ひるがえって、子どもたちに正当な性教育をしているはずの学校でも、「生殖教育」「性器教育」をしているとしか、私には思えてならない。
 性教育とは、まさしく人間教育であるべきだ。人間としてのよろこび、人間としての生き方、その一分野として、性のことがあるのだと思う。

 〈そして今 あなたが振り返り
  そして今 「はい」とわたしが答えたのだ〉

この二人が結びつき、

 〈はやくも わたしたちは知って頬を染める
  わたしたち自身が花であることを
  ふたりで咲いた はじめての朝〉

 この詩の世界には、「援助交際」などというものが入り込む余地は、微塵もない。
 そして、

 〈ひとりではわからなかったことが
  ふたりではわけなく解ける この不思議さ
  たとえば花が咲く意味について〉

という、人間と人間との、結びつきが生まれるのだ。

 そういう結婚、そういう結びつき、そういう性を、子どもたちが知ってほしい。
 劣悪なものほど、より刺激的になっていく。だから、思春期の子どもたちが、興味をもち始めるのも、無理からぬものがあるとは思う。しかし、とりこまれてしまわないようにしてやるのが、大人の責任ではないだろうか。
 「結婚」のような詩を読めば、人間としてのよろこびの性に、感動するのではないだろうか。

 家庭では、学校でしているような「生殖教育」「性器教育」ではなく、「結婚」のような詩を間にすれば、子どもたちと、結婚とは、人間と人間の結びつきとは、さらに性のことについても、話し合うことができるのではないだろうか。
2009-03-17

こゆび

カテゴリー: 日記
  こゆび  こわせ・たまみ
こゆびは
ゆびの 赤ちゃんだから
おはしも もてない
スプーンも もてない
こぼしたごはんも ひろえない

こゆびは
ゆびの 赤ちゃんだから
バナナも むけない
みかんも むけない
おやつの おかしも つまめない

それでも こゆび
ちいさな こゆび
ゆびきりげんまん また明日
明日の 約束
ネ できるでしょ



 こわせ・たまみは、子どものための詩やお話しをたくさん書いている。「お話365+1 456月~123月」をはじめ、たくさんの著作がある。
 こわせ・たまみは、とくに「こゆび」のように、幼児から学齢前の子どものための作品を、多く書いている。

 「こゆび」は、1連と2連が、

〈赤ちゃんだから〉〈・・・ない〉

ということばが、くりかえされている。

 〈こゆび〉が〈・・・ない〉でもいいはずなのに、〈赤ちゃんだから〉ということばがあることで、こゆびが何にもできないということが、強調されるのだ。
 しかもそれが、くりかえされていることで、ますます、こゆびは何にもできない、と思ってしまう。

 3連では、そのこゆびが、できることが書かれている。
 こゆびの、赤ちゃん指という条件、小さい指という条件だからこそ、ゆびきりげんまんができるのだ。
 親指や中指で、ゆびきりげんまんをしているところを想像するだけで、おかしくなる。

 1連も2連も3連も、こゆびのことを書いているのだが、1連と2連はできないことを、3連はできることを書いている。
 書いている「もの」は同じでも、書いている「こと」は違う。
 その「こと」の違いが、質的な違いになっているのだ。

 1連と2連の「こと」は、食べることだが、3連の「こと」は、コミニュケーションができる、ということである。

 コミニュケーションのほうが、食べることよりも、質的に価値があるというわけではないが、約束ができると言われたとき、なんだかホッとするような気持ちになってくる。

 詩の書かれ方をみると、約束はできるけれども食べるための動作はできないじゃなく、お箸は持てないが約束はできる、みんんはむけないが約束はできると、なんだかホッとする気持ちになるように、書かれているのだ。

 詩人とは、なんとことばの使い方がうまいのか。
2009-03-18

イナゴ

カテゴリー: 日記
  イナゴ   まど・みちお

はっぱにとまった
イナゴの目に
一てん
もえている夕やけ

でも イナゴは
ぼくしか見ていないのだ
エンジンをかけたまま
いつでもにげられるしせいで・・・

ああ 強い生きものと
弱い生きもののあいだに
川のように流れる
イネのにおい!



 まど・みちおは、1909年生まれでいまも元気で、子どものための詩を書きつづけている、子どものための詩の世界では、第一人者の詩人。
 まど・みちおの詩を読むたびに、いつもハッとさせられてしまう。
 日常生活の中の、なんでもないものやことがらが、重大な意味をもって、迫ってくるように思えるからだ。

 まど・みちおが、詩のなかで使っていることばが、過激だというのではない。それどころか、ごくあたりまえのことばしか、使っていない。
 しかし、詩人まど・みちおが、そのあたりまえのことばを使って創りだす、詩の世界は、ふだんあたりまえと思っていたものが、みごとにひっくり返させられて、読者の前にくりひろげられるのだ。

 この「イナゴ」を読んだとき、住井すゑさんの名作「橋のない川」を思い浮かべた。テーマも題材も違う、あの壮大な著作に匹敵するほどの、内容をもった詩だと思う。

 〈もえている夕やけ〉ということばが、、〈イナゴ〉のイメージと重なりあって、日本の農村風景の夕焼けを、なんとも鮮やかにイメージさせる。
 それなのに、目に映ってまでいる美しい夕焼けを見ずに、〈イナゴ〉は、〈ぼく〉しか見ていないのだ。

 稲を食べる害虫として、稲作の長い歴史の中で、人間から殺されてきた〈イナゴ〉は、美しい夕焼けも見ないで、〈ぼく〉しか見ずに、〈いつでもにげられる〉ことだけしか、考えていないのだ。

 同じ釜の飯を食う、という言い方があるが、同じものを食べるということは、それだけで仲間だという意識がある。
 稲を食べるので、イナゴ(稲子)と名付けられた〈イナゴ〉は、同じ稲を食べるということでいえば、〈ぼく〉を仲間と思ってくれてもいいはずなのに、美しい夕焼けを、〈ぼく〉といっしょに見てくれてもいいのに、殺されるという思いを抱いて、逃げられる準備をして、美しい夕焼けではなく、〈ぼく〉しか見ていないのだ。

 本来なら、仲間として結び付けるはずの稲なのに、その稲を間にして、殺し殺される関係として、存在していることへの、〈ぼく〉の悲しみ。

 人間の〈ぼく〉と昆虫の〈イナゴ〉の、生きる意味を考えさせられる深い内容を、こんな短い詩であらわすことのできる、まど・みちおという詩人のすばらしさを、あらためて感じさせてくれる詩だと思う。
2009-03-19

あなたが好き

カテゴリー: 日記
  あなたが好き   立原 えりか
あなたが好き
生きてるから好き
笑ってるから好き
くすぐったがりやだから好き
くいしんぼうだから好き
ねごと言うから好き
わがままだから好き
わたしより大きいから好き
うそがへただから好き
つめがきれいだから好き
いっしょうけんめいだから好き
愛してくれるから好き
愛してるから好き



 立原えりかは、1937年生れで、「木馬がのった白い船」「でかでか人とちびちび人」など、ファンタジー作品を数多く書いている童話作家だ。

 「あなたが好き」は、黒木瞳の「真心」と、好対照の詩だ。
 作品と作品が、対比している。

 文芸作品を読むとき、同じテーマの作品同じ題材の作品と読むばあいが多いのだが、対比的な作品を読むのも一つの方法である。

 とくに詩のばあい、「真心」と「あなたが好き」のように対比的な作品を読むと、それぞれの作品が照らし合って、それぞれの作品を別の機会に読んだときよりもおもしろさが増す。
 小説などの長い文芸作品では、読み比べるのは大変だが、詩は短いので、読み比べるのに適している。
 2つの作品を読み比べるだけでなく、3つ4つ5つと、読み比べるのも楽しい。

 さて、「あなたが好き」。
 わかったわかった、もういいもういい、「あなたが好き」なんでしょうわかったよと言いたくなるぼど、手放しで無邪気に「あなたが好き」と言っている。

 「・・・だから好き」ということのなかには、それが理由で嫌いという人もいるだろう。
 たとえば、わがままやくいしんぼうなどは。

 でもこの詩は、「好きなのだから・・・でもいい」のではないのだ。
 もうなんでもいいのである。思いついたことばを並べ、それに「好き」をくっつけただけなのだ。

 恋をしたとき、「真心」のように自分のこころを見つめることと、「あなたが好き」のように相手に伝えることの、二つのタイプがある。
 これは、人によって違うばあいもあれば、一人のひとが両方の行動をとることもあるだろう。
 これは、対比なのだ。そして同時に、類比でもある。

 自分のこころを見つめることと、無邪気に相手に伝えることが対比しているし、恋する思いというのは、どちらにも類比しているのである。
2009-03-19

おおきなかぶ

カテゴリー: 日記
   「おおきなかぶ」 

「おおきなかぶ」は、すべての1年生の教科書に載っており、絵本にもなって幼稚園や保育園でも、子どもたちになじみのある作品だ。

 とてつもなくおおきなかぶが、何人もの人物たちが手伝ったおかげで、最後にやっと抜けるというこの作品の展開は、子どもたちが大喜びするものである。

 この作品を、協力のことを書いた作品だと思っている人が多いと思う。

 しかし、この作品の書かれ方を詳しくみると、協力のことを書いたのではないことがわかる。

 もちろん、何人もの人物が登場して、みんなで力を合わせてかぶを抜くのだから、協力という部分があるともいえる。

 しかし、その人物たちが登場するのをよくみると、一人ずつ、それも、おじいさんから始まって、おばあさん・まご・いぬ・ねこ・ねずみと、だんだん小さくなっている。

 では、「おおきなかぶ」の全文を書くので、どんな人物たちが登場するのかをよくみてほしい。

 おおきなかぶ  西郷竹彦・訳

 おじいさんが、かぶのたねを まきました。

 「あまい あまい かぶになれ。
  おおきな おおきな かぶになれ。」

 あまい あまい、おおきな おおきな かぶになりました。

 おじいさんは、かぶを ぬこうとしました。
「うんとこしょ、どっこいしょ。」
けれども、かぶは ぬけません。

 おじいさんは、おばあさんを よんできました。
かぶを
おじいさんが、ひっぱって、
おじいさんを
おばあさんが ひっぱって、
「うんとこしょ、どっこいしょ。」
それでも、かぶは ぬけません。

 おばあさんは、まごを よんできました。
かぶを
おじいさんが ひっぱって、
おじいさんを
おばあさんが ひっぱって、
おばあさんを
まごが ひっぱって、
「うんとこしょ、どっこいしょ。」
やっぱり、かぶは ぬけません。

 まごは、いぬを よんできました。
かぶを
おじいさんが ひっぱって、
おじいさんを
おばあさんがひっぱって、
おばあさんを
まごが ひっぱって、
まごを
いぬが ひっぱって、
「うんとこしょ、どっこいしょ。」
まだまだ、かぶは ぬけません。

 いぬは、ねこを よんできました。
かぶを
おじいさんが ひっぱって、
おじいさんを
おばあさんが ひっぱって、
おばあさんを
まごが ひっぱって、
まごを
いぬが ひっぱって、
いぬを
ねこが ひっぱって、
「うんとこしょ、どっこいしょ。」
なかなか、かぶは ぬけません。

 ねこは、ねずみを よんできました。
かぶを
おじいさんが ひっぱって、
おじいさんを
おばあさんが ひっぱって、
おばあさんを
まごが ひっぱって、
まごを
いぬが ひっぱって、
いぬを
ねこが ひっぱって
ねこを
ねずみが ひっぱって、
「うんとこしょ、どっこいしょ。」

 とうとう、かぶは ぬけました。


 そう、このだんだん小さくなっているのが、「おおきなかぶ」という作品の特徴なのだ。

 ふつう、何か手伝ってもらおうとするときに、だんだん小さくなっていくように頼むだろうか。それまでに手伝ってもらっていた人よりも、大きな人・力の強い人に頼むのではないだろうか。

 ところがこの作品では、だんだん小さくなって、最後にはほんとに小さな、とてつもなくおおきなかぶを抜くのには、あまりにも力のなさそうな、ねずみを登場させている。

 しかし、とてつもなく大きなかぶも、この小さな力のなさそうな、ねずみが手伝ってくれたおかげで、やっと抜けるのだ。

 これはどういうことだろう。みんなで抜く(協力)という内容もあるだろうが、それよりも、いちばん小さな力の弱いねずみが手伝ってくれたので、かぶが抜けたということなのである。

 何かをやろうとするときに、どんなに力の弱い人であっても、その人がいなければ目的が達成できない、ということが書かれた作品なのだ。

 こういう考え方を、子どもたちが、この作品から学んでほしい。

 これが反対に、ねずみから始まって、最後におじいさんが登場する話だったらどうだろう。

 やっぱり小さな人ではだめだ、力のない人では役に立たない、という考え方になってしまうのではないだろうか。

 子どもたちに、そんな考え方をする人間にはなってもらいたくない。

 この作品には、もうひとつ大事なことが書かれている。

 おじいさんが、かぶを植えるとき、

  〈「あまい あまい かぶになれ。おおきな おおきな かぶになれ。」〉

と言って植える。

 かぶは、食べ物だ。食べ物としての、いちばんの値打ちはなんだろう。おいしい(あまい)ことである。そのうえで、大きければなおいいだろう。

 だからおじいさんは、値打ちのあるかぶができるように、まず

〈「あまい あまい かぶになれ。」〉

と願い、その次に、

〈「おおきな おおきな かぶになれ。」〉

と願ったのだ。

 そして、おじいさんの願いに応えて、かぶも

〈あまい げんきのよい とてつもなく おおきな かぶ〉

になったのだ。

 そういう値打ちのあるかぶだからこそ、みんなも抜くのを手伝ったのである。

 何かをやろうとするとき、協力することも大事だが、目的が値打ちのあることかどうかを考えることは、もっと大切なことなのだ。

 「いじめ」をするために、みんなで協力してはだめなのだ。

 そういう、自分(たち)が行動するときに、値打ちのあることをやろうとしているのかという考える力を、子どもたちに持ってもらいたいものである。

 おおきなかぶを、みんなで抜いて、楽しかったねよかったねというのは、この作品だけのものだ。

 しかし、

○ どんなに、力の弱そうな人でも、その人を仲間にしなければ、目的を達成できない。

○ 行動するときには、値打ちのあることがどうか、考えることが大切。

というのは、子どもたちが生きていくうえで、身につけてもらいたい、大切な考え方なのだ。
2009-03-20

うしさん うふふ

カテゴリー: 日記
   うしさん うふふ   吉田 定一

うしさん
 うふふ

おっぱいに にんじん
 ついてるよ

しっぽに ねずみが
 ぶらさがってる

うふふ はなに
 ドーナツ ついてる

からだに ふんわり
 くも うかんでる

うしさん
 うふふ



 吉田定一は、「ことばのランドセル」「詩のランドセル」1~6年、などの著作があり、子どものための詩もたくさん書いている詩人。

 「うしさん うふふ」は、読者も、思わず〈うふふ〉と笑いたくなるような詩だ。
 声にだして読んでほしい。
 黙読よりも、もっと楽しくなるはずだ。

 もう、なにも言うことはない。
 あとは、「うしさん うふふ」を読んで、ふんわりとした気持ちになってほしい。
2009-03-21

ミミコの独立

カテゴリー: 日記
  ミミコの独立   山之口 貘

とうちゃんの下駄なんか
はくんじゃないぞ
ぼくはその場を見ていったが
とうちゃんのなんか
はかないよ
とうちゃんのかんこをかりてって
ミミコのかんこ
はくんだ というのだ
こんな理屈をこねてみせながら
ミミコは小さなそのあんよで
まないたみたいな下駄をひきずっていった
土間では片隅の
かますの上に
赤いはなおの
赤いかんこが
かぼちゃとならんで待っていた


 山之口 貘は、日常生活の一コマを切り取ったような、生き生きとした詩を書いている詩人だ。

 詩という短い文芸では、どのことばも、詩全体のイメージを作り上げるために、詩人が考えて書かれたことばである。

 て・に・を・は、一つでも違うと、その詩のイメージが変わってしまうほど、詩では一つひとつのことばが大切だ。
 たとえば、〈赤いかんこ〉が〈かぼちゃ〉でなく、ショートケーキと並んでいたとなったら、この詩の世界は、ずいぶん違うイメージになるであろう。

 題名は「ミミコの独立」と、おおげさに書いているが、下駄を〈かんこ〉と言う幼い女の子の、自己主張している様子が、ユーモラスに描かれている。

 ユーモアとは、読者がおもわずクスッと笑うような内容のものをいう。
 ユーモラスな作品の中の登場人物本人は、コッケイなことをしようとしているのではなく、それどころか大まじめに行動しているのだが、それを見ている読者がおもわず笑ってしまうのである。

 さて、〈ミミコ〉のユーモラスないいぐさに、おもわず笑ってしまうのだが、題名が「ミミコの独立」となっているので、こんな幼い女の子にも自尊心があるのだ、この女の子が成長したとき、父親の思いはいかばかりかと、これまた、おもわず考えてしまう。
 もちろん、そう考えさせるように、作者が考えてつけた題名なのだ。

 題名を「赤いかんこ」や「下駄」または「小さいミミコ」とした場合と、「ミミコの独立」となっている違いを想像してほしい。
 詩の本文のイメージからはすこし離れた感じで、しかしそれを包括したイメージに、この「ミミコの独立」という題名はなっていると思う。

 詩を読むとき、題名をどのようにみるかと考えるのも、詩を読む楽しみのひとつといえる。
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