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ともだち塾の文芸日記

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2009-04-11

黙っていよう

カテゴリー: 日記
  黙っていよう   黒田 三郎

愛していますでは
よそよそしく
好きですでは
不足です
さあ
何と言ったものか
何も言わないで
黙っていよう


 黒田三郎は、1919年うまれで、もう故人になっいる詩人だ。子どもの詩だけでなく、大人むけの詩も多く、「小さなユリと」「もっと高く」などの作品が有名だ。1977年に、「定本黒田三郎詩集」を刊行している。

 恋とは不思議なもので、相手に何も言えなくなってしまうもののようである。
 ふつうは、相手に自分の考えや思いを知ってもらいたいときには、話さなくてはわかってもらえないと思って、なるべくたくさん話すようにするものだ。
 それが、恋の相手となると、とたんに何も言えなくなってしまうのだから不思議だ。

 でも、「黙っていよう」の詩の内容は、それとはすこし趣きがちがうようだ。
 もう結婚をしている相手に、

 〈 何と言ったものか 〉

と、思っているイメージがある。

 〈 何も言わないで
   黙っていよう  〉

も、何も言えなくて黙ってしまうのとは、ちがうようだ。
 黙っていよう、黙っていてもわかるよね、と言っているイメージがある。

 〈 愛していますでは 〉なぜ〈 よそよそしい 〉のだろうか。
 〈 好きですでは 〉どうして〈 不足 〉なのだろうか。
 そのことの説明はなんにもない。

 〈 さあ
   何と言ったものか 〉と、悩んだあげく、
 〈 何もいわないで
   黙っていよう 〉となるのだ。

 でも、愛している、好きですと、言おうとは思っているのだ。
 それでも言えなくて、黙っていようという気持ちの動きには、クスリと笑ってしまうようなところがある。
 思いを伝えたいけど恥ずかしくて話せない、のとは微妙にちがっているが、やはり、愛している、好きですとは言えない、男の人の感じがよくわかる。

 いま、男の人と書いたが、この話者は、男の人なのだろうか。女の人ではありえないだろうか。
 まぁそのことは、それぞれの読者のイメージに、まかせることにしよう。
 詩の読み方に、こう読まなければならないというものはない。
 ですから、私が書いていることも、あくまでも私の読み方であって、みなさんそれぞれの読み方をされればいいと思います。
2009-04-12

バッタのうた

カテゴリー: 日記
  バッタのうた   おうち・やすゆき

バッタ
草の色から
ピョンと とびだす バッタ

じっとしてれば
はっぱと おんなじ バッタ

ピョンと とばなきゃ
みつからないのに バッタ

バッタ
草の色から
ピョンと とびだす バッタ

じっとしてたら
はっぱに なっちゃう バッタ

バッタだからね
ピョンと とびたい バッタ




 おうち・やすゆきの「バッタのうた」は、教科書にとりあげられた詩だ。
 「あぶないから」という大人の声を聞かず、ピョンピョン遊びまわる、子どもの姿が目に浮かぶような詩だ。

 1・2・3連と4・5・6六連が、それぞれに対応している。
 1連と4連は、まったく同じことばでのくりかえしだ。
 2連と5連は、同じことばもあり、ことばの組み合わせ方も同じなので、繰り返しのように思えるが、内容はかなり違っている。
 これは、くりかえしというよりも、対比している、といったほうがいいだろう。
 3連と6連も、2連と5連の場合と同じで、いやそれ以上に、はっきりとした対比になっている。

 もうすこし、この詩の内容にたちいってみると、1連と4連も、ことばだけはまったく同じだからくりかえしのようだが、その内容は、対比というべきではないだろうか。
 1連では、同じ色の草から飛び出したら、「見つかるよ」と心配している感じだが、4連は、見つかるかもしれないが、バッタだから「飛びたいよね」と言っている感じがする。

 詩の楽しさは(詩に限らず、すべての文芸は)、読んで感じることに楽しさがあるのだから、私が書いているような「分析や解説」は不必要だ、いや邪魔でさえあると言われた。

 よく古文の学習のとき、掛り詞や現代語との違いなどを、それこそ一語一語辞書で調べて読み進めることが行われている、いや古文だけでなく、いまの国語の授業は、傾向的には同じようなことだろう。

 しかし私が述べているのは、そういう「分析」とは違い、詩を好きになり、詩を読んでいいなと思ったり、詩を書きたいと思ったときに、この詩はどんな構造になっているのかということがわかれば、より詩を楽しめるのではないかと思い、書き述べているのだ。

 自分が書いていて矛盾したことを言うようだが、私の書いたものを読むまえに、紹介し詩をなんども読んでその詩をぜひ好きになってほしい。
 そして、たくさんの詩を読んで、詩を好きになってほしい。
 そのうえで、私の書いたことを読んで、詩の構造などにも関心をもってもらえればと思い、書き述べているのです。
2009-04-13

はきはき

カテゴリー: 日記
  はきはき   みのむし せつこ 
                       (工藤 直子)



ひとりで ブランコしていたら
とんぼが「あそぼう」と
とんできました
わたしは「はい」というかわりに
かくれてしまいました

そのよる ねどこのなかで
へんじの れんしゅうをしました
「はい!あそびましょ
 はい!あそびましょ
 はい!あそびましょ」

あしたは
はきはき へんじができますように
あしたも
だれかが あそびにきますように




 みのむしせつこが願っているのは、〈だれか〉と〈あそび〉たいということだ。
 1連では、

  〈 とんぼが「あそぼう」と 〉

飛んで来たときに、せつこは、

  〈 「はい」というかわりに
    かくれてしまいました  〉
 せつこは、とんぼが飛んで来て、「あそぼう」と言ってくれたとき、「はい」と言いたかっのに、隠れてしまった。

 2連では、

  〈 ねどこのなかで
    へんじの れんしゅうをしました 〉

 1連で、〈「はい」というかわりに 〉なのだから、せつこが遊びたいと思っているのだなということは、読者にも伝わってくる。

 2連になると、〈 へんじの れんしゅうをしました 〉というのだから、せつこの遊びたい気持ちがはっきりわかる。
 ということは、2連は1連のくりかえしになっているのだ。このくりかえしは、同じことばのくりかえしではなく、ことばは違うけれども、内容のくりかえしになっているのだ。
 そして、〈へんじの れんしゅうを〉3回もするのだから、せつこの遊びたいという気持ちが、強くなっていることもわかる。

 だから、2連は、1連のくりかえしなのですが、1連よりも気持ちが強くなっているので、発展するくりかえしといいます。

 3連では、

  〈 へんじができますように
    だれかが あそびにきますように 〉

と、せつこの気持ちが、具体的になっている。
 1連から2連へと発展したせつこの気持ちが、3連になるとより発展して、返事ができるように、誰かが遊びに来るようにと、具体的な願望にまでなっているのだ。

 〈 はい!あそびましょ 〉と、3回も練習したのだから、あした誰かが来たら、きっと〈 はきはき 〉と返事して、せつこはいっしょにたのしく遊ぶことだろう。
2009-04-14

すすき

カテゴリー: 日記
  すすき   工藤 直子

すすきが
しんしんと のびて
秋になると

あそこ‥‥‥あそこ‥‥‥
あそこ‥‥‥と
すすきは
風のゆくえを指さす

すすきの指にさそわれて
人々は 頭をめぐらせ
ついに おおきな空をみつける



 詩は、ふだんの生活のなかでは、考えつかないような、描かれかたをすることがよくある。

 すすきが揺れているのを見たとき、風が吹いてすすきを揺らしているのだと、あらためて考えることもなく、そのように思うのではないだろううか。
 それを、この話者は、すすきが風の方向を示していると見るのだ。

 秋になったから、すすきが伸びるのではなく、すすきが伸びたので、秋になったとも言っている。
 この言い方は、そんなにおかしくは感じない。
 桜が咲いたから、もう春だなとも、言ったりする場合もある。

 しかし、すすきが揺れて、〈風のゆくえを指さす〉と言われたとき、ハッとするのではないだろうか。
 そういえば、さっきも、すすきが伸びて秋になると、言っていたなあと、あらためてその見方に注目することになる。

 それならばと、その先を読むと、

 〈 ついに おおきな空をみつける 〉

となっているではないか。

 空の大きさをあらわした詩は、いままでにも数多くあったが、その大きな空を、〈 ついに 〉見つける、とあらわした詩はなかったのではないだろうか。

 詩の世界を味わうためには、思わずハッとするような書かれかたをしているところに注目してみると、深く味わえる。
2009-04-15

朝がくると

カテゴリー: 日記
  朝がくると   まど・みちお

朝がくると とび起きて
ぼくが作ったのでもない
水道で 顔をあらうと
ぼくが作ったのでもない
洋服を きて
ぼくが作ったのでもない
ごはんを むしゃむしゃたべる
それから ぼくが作ったのでもない
本やノートを
ぼくが作ったのでもない
ランドセルに つめて
せなかに しょって
さて ぼくが作ったのでもない
靴を はくと
たったか たったか でかけていく
ぼくが作ったのでもない
道路を

ぼくが作ったのでもない
学校へと
ああ なんのために

いまに おとなになったなら
ぼくだって ぼくだって
なにかを 作ることが
できるように なるために



 まど・みちおは、日常生活のなにげない場面を、読者がドキッとするような詩にしている。
 そのドキッも、大仰なことばを使っているからではなく、まど・みちおの詩が描きだしているものが、読者の心に響いて、心が鳴ったドキッという音なのだ。

 いえいえ、私のつたない文章では、とてもまど・みちおの詩をいいあらわすことはできない。
 とにかく、まど・みちおの詩を読んで、詩人まど・みちおが描く詩の世界を、じっくりと堪能していただきたい。
 
 「朝がくると」は、なぜ勉強をしなければいけないのか、という疑問を感じはじめる子どもたちに、ぜひ読んでもらいたい詩だ。
 勉強だけはでなく、生きるとはどういうことかと考えはじめる、思春期前期のすべての子どもたちに、読んでもらいたい詩だ。

 〈ぼくが作ったのでもない〉ということばが、この短い詩のなかに、8回もでてくる。
 身のまわりのすべてのものが、誰かが作ってくれたものだというのは、当然わかっていることだが、あらためて行動するたびごとに〈ぼくが作ったのでもない〉といわれると、ドキッとしてしまう。

 この詩のすばらしさは、〈ぼくが作ったのでもない〉ものを使うのだから、という思考段階で終わるのではなく、

 〈 ぼくだって 
   作ることが
   できるようになるために 〉

と言っていることだと思う。

 詩のことばとしては、「誰か」がぼくのために作ってくれて、「誰か」のためにぼくが作る、ということばはないが、ものがあるということの背景に、人間の労働の結果である、ということが思い浮かんでくる。

 題名の「朝がくると」も、朝は毎日毎日くるものだし、朝がくると・・・というように、ことばの続く感じが、「毎朝考えたい」と言われたように思える。
2009-04-16

カテゴリー: 日記
  木   草野 心平

葉っぱをおとした。
冬の木はいい。
裸の木々のすがたはいい。
ごつごつした古い木などは特にいい。
硬くて落ちついていて実にいい。

霜柱にかこまれて。
寒さのなかにたっている。
裸の木々の美しさ。

木々や幹のなかを。
力が流れているような気がする。
夢がいっぱいつまっているような気がする。
白い炎が燃えているような気がする。



 草野 心平は、独特な詩世界を持った詩人だ。

 「木」の詩は、葉を落とした冬の木が描かれている。
 この詩の話者は、冬の木が〈いい〉と言っているのだが、私なら、緑の若葉を豊かに繁らせた初夏の木のほうが、いいと思う。
 なぜ、この詩の話者は、冬の木が〈いい〉と思うのだろうか。

 3連で、

〈 夢がいっぱいつまっているような気がする。
  白い炎が燃えているような気がする。   〉

と言っている。

 〈 葉っぱをおとした。
   裸の木々     〉

に、なぜ、

 〈 夢がいっぱいつまっているような
   白い炎が燃えているような    〉

気がするのだろうか。

 〈 葉っぱをおとした。
   裸の木々     〉

であっても、決して枯木ではない。
 だから〈 冬の木 〉が〈 いい 〉と言っているのだと思う。

 枯木も、葉っぱを落とした裸の木だ。
 でも、〈 葉っぱをおとし 〉ていても、〈 裸 〉であっても、枯木ではなく、春になれば芽吹き、若葉を繁らせていくであろう〈 冬の木 〉だから、〈 いい 〉と言っているのだと思う。

 枯木ではなく、生きている〈冬の木〉だからこそ、
芽を出す、

 〈 夢がいっぱいつまっているような気がする。 〉

のだろうし、
葉を繁らせる

 〈 白い炎が燃えているような気がする。 〉

のだろう。

 私が、この詩のなかの〈 冬の木 〉ということばと比べた枯木は、この詩のなかには出てこないことばである。
 詩の世界をイメージするとき、その詩には書かれていないことと比べることによって、その詩が、より豊かにイメージできることがある。

 低学年や中学年では難しいかもしれないが、小学校の高学年になれば、その詩に書かれていないことと比べて、その詩をより豊かにイメージすることも、できるようになるのではないだろうか。

 私も、冬の木が好きになってきた。

2009-04-17

あいしてる

カテゴリー: 日記
  あいしてる   谷川 俊太郎

あいしてるって どういうかんじ?
ならんですわって うっとりみつめ
あくびもくしゃみも すてきにみえて
ぺろっとなめたく なっちゃうかんじ

あいしてるって どういうかんじ?
みせびらかして やりたいけれど
だれにもさわって ほしくなくって
どこかへしまって おきたいかんじ

あいしてるって どういうかんじ?
いちばんだいじな ぷらもをあげて
つぎにだいじな きってもあげて
おまけにまんがも つけたいかんじ



 谷川俊太郎は、1931年生まれで、日本の代表的な詩人だ。
 大人むけのシリアスな詩とともに、ことばあそびや絵本など、子どもの詩を数多く書いている。

 「あいしてる」は、なんともかわいい恋の詩だ。

 〈 ならんですわって うっとりみつめ 〉

なんて言うから、大人の恋かなとおもったら、

 〈 いちばんだいじな ぷらもをあげて 〉

とくるのだから・・・。

 この詩は、三連の詩で、1連2連3連それぞれが、対句になっている。
 1連は、自分が恋人を、どう思っているか。
 2連は、自分と恋人の、ほかの人たちへの対応。
 3連は、恋人には、自分の持っているものを、すべてあげたいという思い。
 つまり、それぞれが、対比になっているのだ。

 対比でもあるのだが、1・2・3連とも、恋人を「あいしてる」ことを、類比してもいる。

 一つの連のなかでも、対比がある。

 〈 あいしてるって どういうかんじ?
   ならんですわって うっとりみつめ
   あくびもくしゃみも すてきにみえて
   ぺろっとなめたく なっちゃうかんじ 〉

 はじめの〈 どういうかんじ? 〉と、?マークがついているのと、さいごの〈 なっちゃうかんじ 〉が、対比になっている。
 〈 どういうかんじ? 〉は、自分にか、ほかの人にか、問いかけているイメージだが、〈 なっちゃうかんじ 〉は、説明しているイメージである。
 〈 どういうかんじ? 〉と尋ねられて、〈 なっちゃうかんじ 〉と答えているイメージもある。

 この詩全体も、自分自身に、たとえば日記に書いているような、イメージとともに、ほかの人に説明しているような、イメージがある。
 詩は、イメージの文芸である。
 それも、単一のイメージではなく、たくさんのイメージが積み重なって、詩の世界を創りあげているのだ。
2009-04-18

たんぽぽ

カテゴリー: 日記
  たんぽぽ   川崎 洋

たんぽぽが
たくさん飛んでいく
ひとつひとつ
みんな名前があるんだ
おーい たぽんぽ
おーい ぽぽんた
おーい ぽんたぽ
おーい ぽたぽん
川に落ちるな


 川崎 洋は、わかりやすく楽しい子どもの詩をたくさん書いている詩人だ。

 たんぽぽが、たんぽぽと呼ばれているのは、なぜだろう。
 誰かが、はじめに、これを「たんぽぽ」と呼ぼう、と言ったからだろうか。
 たんぽぽにかぎらず、すべてのものが、その名前で呼ばれているのは、なぜだろうか。
 すべてのものが、誰か、こう呼ぼう、とはじめに言った人がいるのだろうか。
 ものの名前が、なぜその名前なのかは、ふだん考えてもみないが、あらためてなぜと聞かれると、ふしぎな感じがする。
 また、それぞれのものに、それぞれ違った名前があるというのも、ふしぎだ。

 「たんぽぽ」の詩で、飛んで行くたんぽぽに、

おーい たぽんぽ
おーい ぽぽんた
おーい ぽんたぽ
おーい ぽたぽん

と呼びかけたのは、たんぽぽのたくさんの綿毛の、一つひとつは、みんなたんぽぽでありながら、それぞれは、かけがえのないひとつであると思っているからにほかならない。

 子どもたちもそうだ。
 ひとからげに、子どもたちと言っているが、一人ひとりの子どもには、それぞれ名前がある。
 一人ひとりの名前が違うように、一人ひとりの子どもが、違う個性を持ち、違う生き方をするのである。

 これはほんとに、言うのは簡単だが、こころの底からそのように思い、子どもに対していくのはたいへんである。
 私も、子どもたちを、一人ひとりの子どもとして見ることができるように、詩を読み、学習を続けていきたいと思う。
2009-04-19

おんなのこ

カテゴリー: 日記
  おんなのこ   まど・みちお

おんなのこって
すずしそう
かぜのこと つれだって
スキップ する
スカートの なみ
うたみたい

おんなのこって
ひっそり なく
そのとき ちょっと
かわいそう
みない ふり
していてやる

おんなのこって
おこると ぱあ
ごきげんだと いかす
いっしょに
にじの したに
いるみたい


 まど・みちおは、1909年生まれで、戦前から童謡を書き、戦後童謡の代表作といわれる「ぞうさん」をはじめ、数多くの童謡を書いている、子どものための詩では、第一人者の詩人だ。
 ものの原理を覗く目で、身近なものを愛情豊かに表現する、まど・みちおの詩には、郷愁をも感じさせられる。
 「まめつぶうた」「まど・みちお詩集(全6巻)」など、多数の詩集がある。

 「おんなのこ」は、なんともさわやかな詩だ。
 いわさきちひろさんの「緑の中の少女」を、イメージするような詩だ。

 「おんなのこ」は、恋の詩だろうか。
 1連2連は、特定の女の子ともいるし、話者のまわりにいる、女の子たちのことだともとれる。
 3連では、すこしだけ、特定の女の子のことを言っているのかなぁ、というイメージもでてくる。

 この詩の話者は、何才くらいの子どもなのでしょうか。男の子だというのはわかります。

 〈 おんなのこって
   すずしそう
   かぜのこと つれだって
   スキップ する
   スカートの なみ
   うたみたい 〉

 そういえば、スキップするのは、女の子だけのような感じがする。

 それにしても、女の子を、〈 すずしそう 〉と感じるこの男の子は、なんともさわやかな感性を持っていることだろう。
 女の子が泣いているとき、〈 みない ふり/していてやる 〉のも、この男の子のやさしさを感じる。
 〈にじの したに/いるみたい〉で、この詩の世界が、いっきに広がる。

 男の子が女の子を意識しはじめ、女の子が男の子を意識しはじめるとき、この詩のような、さわやかな感性で相手を見て、やさしく対応してあげてほしいものだ。
 そして、〈いっしょに/にじの したに/いるみたい〉な、ひろやかな喜びをも感じてほしいと思う。

 やっぱり、「おんなのこ」は、恋の詩だ。
2009-04-20

白い馬

カテゴリー: 日記
  白い馬   高田 敏子

波の後ろを走る波・・・・・
波の前を走る波・・・・・
海には 白い馬が群れている

春の朝
白い馬は 陸に駆け上がり
少年たちの姿になって走り続ける

やがて
その若い光の一列が
みさきのほうへまがってゆく



 高田敏子は、子どもの詩だけでなく、大人向けの詩も書いている詩人だ。「こんにちはおひさま」「高田敏子詩集」「噴水のある風景」などの詩集がある。

 「白い馬」は、ファンタジー詩である。
 1連の〈白い馬〉を、現実の白い馬とみるならば、2連の〈少年たち〉は、現実の少年たちではない。
 2連の〈少年たち〉が、現実の少年たちであるならば、1連の〈白い馬〉は、現実の馬ではなくなる。

 どちらがいいのだろうか。
 私は、どちらでもいいと思う。
 もっといえば、どちらでもあり、どちらでもない、ということだ。
 それがファンタジーなのだ。
 ファンタジーというのは、現実ではないということではなく、現実でもあり現実でもない、イメージの世界なのである。

 詩は、イメージの文芸だ。
 詩のはじめから読んでいって、さいごまでイメージがつながっているのなら、詩として成りたっているのである。

 波が、繰り返し打ち寄せて、白い波頭が立っているイメージは、白い馬のイメージにつながる。
 駆ける白い馬のイメージは、春の朝、白いシャツを着て走る、少年たちのイメージにつながっていく。

 少年のイメージは、若い光のイメージになるし、その若い光が、岬のほうへ曲がっていくのは、波打ち際が岬のほうに曲線を描いて伸びていき、波が打ち寄せている、詩のはじめのイメージにつながる。

 波、駆ける白い馬、走る少年たち、若い光の烈と、くりかえされている躍動感あふれることばは、イメージのつながりが、無理なくできている。

 一つひとつのことばが、躍動感があると同時に、それがくりかえされることによって、この詩の躍動感を、より高めているのである。

 くりかえしには、ことばの意味のくりかえしと、イメージのくりかえしがあるのだ。
 「白い馬」は、イメージのくりかえしが、みごとなファンタジー詩を作りあげている。
 すべての詩が、イメージが大切だが、とくにファンタジー詩は、イメージのつながりで成りたつ詩だ。
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