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ET日記

毎日の思うこと

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2008年09月20日

京都に市電が走っていた頃4

カテゴリー: 日記
 もう15年程も前だろうか、お盆に田舎に帰った際、N君の実家を訪ね、畑を見に行ったことがある。「ひえ」だったか「あわ」だったかを作っているという。「私らも初めてのことでようわからんでねえ」と、彼のおふくろさんも困惑気味だったが、秋の豊穣祭だか収穫祭だかに献上するらしい。4月頃に各都道府県のJAに2、3品目が割り当てられ、県内の農家に依頼する。そういう形で選ばれた農家の作物が皇居に献上されるらしい。一応、秘密らしかったが、畑で作っているから、近所の人から尋ねられるし、そのうち分かってしまう。農家にとっての名誉職。11月頃に夫婦で皇居でお目通りをするということらしかった。
 N君のおやじさんは、地域でも尊敬を集めている人だった。二十歳前の昭和16年頃に満州北東部に渡って、開拓農民として暮らしていた。戦争末期ロシア軍が攻めて来るというので、命からがら戻ってきたという大地の子さながらの体験をしていた。酒も強かったし、剣道5段。子どもを集めて剣道を教えていた。謡や謡曲の師匠で、それも教えていた。高校を卒業したての僕らを集めて夢を語ってくれた。高度成長期に農業に大きな夢を抱いている人がそこにいた。「どこそこの駅を降りたら、この人をたずねていきなさい。きっと助けてくれる」と、地元の中国人がそう言って手紙を持たせてくれた。それまでの人間的なつながりを大事にしていたかどうか、それが終戦間際の命運につながった。大事なのは人間性。と、そんな話をしてくれた。こういう、まったく裸の人間に出会った最初の人だった。

 お互い忙しくなり、あまり会う機会がなくなったが、K君は、その後「日本のナショナリズム」とか卒業論文を書くというので、壬生の辺りを取材にいったりしていた。何のことかと思ったが、どうも新撰組の話らしかった。6年ほど同志社に籍を置き、中退して田舎の県会議員の鞄持ちをしているらしいと聞いたが、その後音沙汰がない。
 N君は、結局6年かかったが京大法学部を無事卒業した。2年程前に高校の同窓会があって、久しぶりに顔を合わせた。「ノーベル賞のときは大変だった。すぐ本社の小さな会議室に呼んで閉じ込め、マスコミから隔離した」「社長はロスに出張中だったし、役員に片っ端から電話した」「ノミネートとかない。ダイレクトに本人宛に連絡がいく」 そんな話をしながら笑っていた。頭の髪はお互い相応になったが、その笑顔には学生時代の面影が残っていた。

 京都の街には地下鉄が走るようになり、京阪電車も地下に入った。残る路面電車は京福のチンチン電車。願わくば長くその勇姿を留めてほしいものだと思うが、時代の流れがそれを許すのかどうか。まあまだ10年は健在だろう。懐かしさを求めて一度出かけてみたいものだ。

平成19年10月10日


2008年09月20日

京都に市電が走っていた頃3

カテゴリー: 日記
 京都には、もう一人いた。現役のとき東大を受験して落ち、京都で浪人生活をしていたN君。哲学の道沿い、鹿ヶ谷の疎水の流れの山側に、浪人生専門の下宿屋があった。一年契約で賄い付き、夜の門限は8時半だったか。門限破り3回で親元に連絡がいく。予備校と契約している一年ぽっきりの下宿屋さんが、いくつかあるらしいというのを初めて知った。「鹿ヶ谷」と聞くと、昔々はどんな所だろうと思うが、確かに吉田山の裏手、銀閣寺ができる更に300年程前の平安時代は、人里離れた寂しい所だったに違いない。清盛転覆を狙う密会が行われていたのもわからないではない。
 N君は一浪して、みごと京大法学部に入学した。京福のチンチン電車、鞍馬方面の岩倉木野という駅から歩いて数分の農家の離れのような二階建て20部屋もあっただろうか、学生アパートにいた。携帯電話はおろか、まだ部屋に電話を引くことができない時代だったから、呼び出してもらったりしたが不在のことが多かった。それもそのはず、学生運動にのめり込んでいるらしいと聞き、一度京大の学生自治会の部屋に、夕方訪ねたことがある。暗い階段を下りて、地下の自治会室で「おう。ああ」と、立ち話をしたが、立て看板を作ったり、ビラを書いたりしている風だった。そんな事情で学生時代はあまり交流がなかったが、京大と京女の合同コンパというのに、一度連れて行ってもらったことがある。たまたまその日がコンパという日に遊びにいったのだ。東山七条の辺りの宴会席。偽京大生になって紛れ込み、それなりに京都の学生さんの宴会を味わった。
 京都に出かけると、だいたいコースは決まっていた。阪急四条河原町から三条寺町。ここに「ギャラリー16」という現代美術専門の画廊があって、そこから木屋町の三条大橋のたもとに「ギャラリー射手座」橋を渡って岡崎の美術館。東山三条を蹴上方面に少し登ったところに「ギャラリー、ココ」それらをぐるっと回るのが大方の道順だった。画廊には、単なる貸し画廊とそれなりのポリシーをもって企画展を開催している画廊、日本画中心、版画中心とか、作品のジャンルで壁面の造りや照明や設備も違いがあって、いくつかの分類がある。
 「ギャラリー16」今は京阪三条の北側のビルの中に移転しているが、大阪信濃橋画廊と並んで、関西の現代美術の作家を育てる感覚で活動している。どこも年配の女性が経営していた。

 京大西部講堂にもよく行った。京大生協食堂の横。関西のアングラ劇団やブルースやロックのコンサート、自主上映映画も格安で入れたし、駐車場も使い放題。いつ壊れても不思議ない木造のお寺の講堂か体育館風。屋根瓦に手描きの「もこもこ雲」のペイントが何とも手作り風で、身近に感じる存在だった。中にはイスもなく、傾斜のあるコンクリートの床。場末の映画館のすえた匂いがしたし、まったく埃っぽい中で大音響のコンサート。缶ビールとポップコーン、タバコの煙、拍手と大歓声。若者の熱気が爆発していた。
 ちょうど、関西の若者文化の興隆期だった。二条城の西、二筋目くらいに土蔵を改造した「拾得」という老舗のライブハウスがあって、若者文化を発信していたし、同じような造りの「磔磔」という新しい店が出来てそこにも出かけていった。四条河原町から下がって、細い路地を何度か曲がった仏光寺通り。最初は何と読むのかと思ったが、側までいって「たくたく」と読むらしいことがやっとわかった。演劇やブルース、ジャズ、ロック、詩の朗読、壁には版画や写真展をしていることもあって、アングラ文化の発表の場になっていた。
 そういうライブハウスにも行ったがK君とよく行ったのは、三条から四条の間の木屋町界隈。京都の学生さんの定番コース。焼き鳥や串かつ屋、赤ちょうちんの店を2、3軒飲み歩いて帰る感じだったが、いつの頃か、その頃K君が付き合っていた京女の娘がアルバイトをしていると言うので、三条木屋町のクラブにも何度か行った。貧乏学生の僕らにはかなり場違いな感じの店だったが、閉店までいても、彼はそれなりの金額しか出していなかったように思う。小さな紙に金額のメモ書きを渡されるのだが、その娘は店でけっこう重宝がられる存在だったようで、民間企業はかなりの接待費が使える時代だったから、そのおこぼれを頂いていたらしい。そんな感じで勘定は何とも大雑把だった。そういう時は、決まっていくらかのタクシー代を渡されて、私だけ修学院の彼のアパートに帰って寝た。
 同志社の体育の授業にもいったことがある。御所の北側、レンガ造りの建物が並ぶ光景は関西の私学という感じがした。図書館が新築されたばかりで、この図書館は人気があった。カフェも付いていてアカデミックな雰囲気だった。一般教養の体育の授業は、道を隔てた御所のグランド。教官もいなかったし、学生だけで二チームに分かれての野球。GパンにTシャツもいたし、必要単位のための消化授業という感じだった。側のベンチに座っていると、突然「タイム。代打」と K君が言って、私が打つ羽目になった。まあ、学生だけでやっているし、二浪していたK君の声は何の違和感もなかったのだろう。ショートゴロかそんなことになったが。まだ、のんびりした時代だった。
2008年09月20日

京都に市電が走っていた頃2

カテゴリー: 日記
 修学院に高校の同級生K君という知り合いがいた。高校時代から五木寛之に憧れていた彼は、早稲田を3年間受験した。文学部を始め、法学部、商学部、政経学部など毎年いくつかの学部を受験したが、2浪で諦めて、京都の同志社に入学してきた。修学院の駅から東側、川沿いの坂道を登って300mも行った辺り、左手奥に修学院小学校に通ずる小路の中程に彼の住んでいたアパートがあった。何度も出かけて、呑みに行ったり、いっしょにアルバイトに行ったり、徹夜で麻雀したり、よくつるんで遊んだ。二浪したことで同期の学生となじめないところもあったように思う。
 そこから坂道を倍ほど行ったところに、修学院離宮がある。残念ながら、いまだに中には入ったことがないが、何度か外から眺めて様子を伺ったことがある。東門の前に木造で茅葺きの小さなボックスがあって、皇宮警察の警官が座っていた。薄紫の制服は、普通の警察官の厳めしさはなく、何かほのぼのした雰囲気さえあった。
 桂離宮は、一般公開されていないが、修学院離宮は春と秋に公開されることもあるし、20人程度の団体で、見学希望を出すと、一ヶ月程で許可証が発行され、中を見学できる。学生時代、何度かそういうチャンスもあったのだが、その頃はそういうものにあまり興味もなかったし、ものぐさからか実際に見学したことはない。
 北西側からは、農道が離宮の中まで続いていて、庭や植木の整備など、近くの植木農家が請け負って手入れをしているようで、軽トラックがその道を中に入っていくのが見えるし、取り立てて柵がある訳でもなし、なだらかな丘の上のお庭。のどかな別荘という佇まいの趣きがある。まあ一度は中に入ってみたいものだと思っているが、まだそうはやる気持ちにはなっていない。奈良の正倉院の宝物もそうだが、宮内庁所管の物は、文化財保護法の対象外であり、重要文化財や国宝にはならない。はっきりした規定があるわけではないが戦前からの慣例でそうなっているらしい。
2008年09月20日

京都に市電が走っていた頃1

カテゴリー: 日記
 京都の市電が廃止されて、もう何年たつのだろう。20年近くにもなるのだろうか。京阪電車も地下に入って、出町柳まで延長された。加茂川の東側は川端通りとして市内の幹線道路になり、交通渋滞は大幅に解消された。
 美術科の学生だった私は、京都によく行った。大きな展覧会は、東京上野の美術館のあとは、京都と相場が決まっていた。神戸(兵庫近代美術館)の場合もあったが、大阪にはそういう美術館がなかった。いまだにそれなりの美術展を開催できる府立美術館はないし、佐伯祐三記念館すらない。大阪は美術未開発国とでもいった感じが強い。そんなこともあって学生時代は月に一回か2ヶ月に一回は、京都に出かけるような感じだった。
 高知や富山、金沢、広島、長崎など、まだ市電が残っている都市でもそうだが、市電の乗り場は、路面にコンクリートで造られた高さ50cmほどのプラットホーム「安全地帯」。道路の幅によって狭い所もあったし、カーブにそれが造られている場所もあって、そのすぐ横を相応のスピードで車が走り抜ける光景は、何とも安全地帯とは皮肉なものに思えた。
 夏の日差しの暑い時や梅雨時、冬場の雪の日、風の強い日など、立っている方も電車の中から見ている方も何とも悲惨な風景に見えたこともあった。銀閣寺道から下がって白川通りの坂を登った辺りに車庫があって、停留所は錦林車庫前(きんりんしゃこまえ)と言った。コンクリートの円形の窪地に、それを取り囲むように放射状の線路があって、ミニSL操車場といった造り。市電廃止でバス路線になったが、名前はそのまま残っている。「名前だけ残しているのか」と思ったが、よく見ると何のことはない市バスの車庫になっただけのことだった。
 京阪三条から山科、大津、石山寺方面への京阪電車の路線も三条通りをしばらく路面の上を走っていた。普通の電車が、そのまま路面を走るから、車輪の下から電車を目の前で見上げるような形になる。夜になると、黒っぽい巨大な質量の物質が電灯を灯して動いていく。その間を車やバイクが走り、その横を人が歩いている。こういう光景は、ちょっとした異次元空間をつくり出していた。明るい客車の中の顔は、銀河鉄道の乗客のようにも見えた。蹴上を過ぎると普通の電車軌道に戻るが、山科でまた路面になり大津で更に路面のところもある。この電車の運行は、はらはらドキドキなのだろうと思ったが、そう大きな事故があったとは聞いたことがない。
 京都の市電といえば、京福電車もある。嵐山方面と鞍馬方面。この鞍馬に行く電車にはよく乗った。出町柳から、八瀬、鞍馬方面へ一両だけの電車。これこそチンチン電車という感じだった。屋根の上に斜めに一本棒が出ていて、これが架線に擦れながらつながって電力を受ける。終点の出町柳に到着すると、車掌さんが降りてきて、紐を引っ張ってぐるっと回転させ、棒の向きを反対にする。運転席が後ろと前の両方にあり、それが入れ替わって、そのまま進む。路面を走る所と軌道を走る所。修学院の辺りでは賑やかな交差点を進む所もあった。懐かしさというか何とも親しみを感じるチンチン電車という風情だった。今でもまだ健在らしい。
 宮本武蔵が吉岡一門と決闘したことで有名な、一乗寺の駅もこの電車沿いにある。そこから奥は、宝ヶ池から、八瀬方面と鞍馬方面に分岐する。ここら辺りまで来ると、まるでのどかな田舎の電車という雰囲気になる。
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