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ともだち塾の文芸日記

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2009-04-10

あいたくて

カテゴリー: 日記
  あいたくて   工藤 直子

だれかに あいたくて
なにかに あいたくて
生まれてきた
そんな気がするのだけれど

それが だれなのか なになのか
あえるのは いつなのか

おつかいの とちゅうで
迷ってしまった子どもみたい
とほうに くれている

それでも 手のなかに
みえないことづけを
にぎりしめているような気がするから
それを手わたさなくちゃ
だから

あいたくて



 工藤直子は、1935年生まれで、「てつがくのライオン」「のはらうた」などの詩集を書いている詩人だ。

 1連で、

 〈 だれかに あいたくて
   なにかに あいたくて 〉

となっている。

 2連でも、

 〈 それが だれなのか なになのか 〉

となっている。

 「あいたくて」が恋の詩ならば、〈だれかに あいたくて〉だけでいいはずだ。
 〈なにかに あいたくて〉の「なにか」は、仕事でもいいし、将来の夢でもいいが、自分の行動を主体にした「なにか」というイメージがある。

 しかも、2連では、

 〈 それが だれなのか なになのか
   あえるのは いつなのか        〉

と、具体的ではないと言っている。

 恋に恋すると言うが、それ以前の思いだし、将来の夢も、漠然としてつかまえどころがない、という状況だ。
 そのことが、3連でよくわかる。

 それでも、4連で、

 〈 ことづけを
   ~~
   手わたさなくちゃ 〉

と、思っている。

 〈 だから 〉

 5連の、

 〈 あいたくて 〉

が、一行ということもあり、つよく印象づけられる。

 だから、この詩全体のイメージは、恋の詩だ。私は、恋の詩と読んだ。
 詩とは不思議な世界である。
 ことばでは恋と言っていなくても、詩全体のイメージは、恋の詩になっているのである。
2009-04-09

鹿

カテゴリー: 日記
  鹿   村野 四郎

鹿は 森のはずれの
夕日の中に じっと立っていた
彼は知っていた
小さい額が狙われているのを
けれども 彼に
どうすることが出来ただろう
彼は すんなり立って
村の方を見ていた
生きる時間が黄金のように光る
彼の棲家である
大きい森の夜を背景にして


 村野四郎は、詩作と同時に、詩論も書いている詩人だ。「とんぼのめがね」「わたしの詩的遍歴」「村野四郎詩集」などの著作がある。

 私は、この詩に格調の高さを感じている。
 使われていることばは、普段の生活のなかで使われていることばなのに、なぜ格調の高さを感じるのか、何度も何度も読んでみた。それでも、これだという答えはみつからない。

 使われていることばが普通ならば、詩の内容が格調高く感じるのかと思ったが、それでも、私にはよくわからなかった。
 だけど、格調の高さを感じるのですから、なにか理由があると思い、いろいろと考えてみた。そしてひとつだけ、思い当たったものがあったが、まさか、それが理由とは思いたくないのだ。

 それは、死を目前にしながら、〈すんなり立って〉いる鹿のイメージに、格調の高さを感じているのだろうか、ということである。
 わが国には、死を美的に受け入れる精神的土壌があり、昔は武士の切腹を誉れと思い、近年では、戦争で殺されることを名誉と思わされて、戦争協力に利用されてきた歴史がある。

 私は、自分の中に、死を受け入れることに、格調の高さを感じる心があるのかと、おそろしくなった。
 私は、人間はよりよく生きていくために努力すべきだと考えているし、子どもたちに、人間とはなにか生きるとはなにかということを、詩をとおして、すこしでも伝えることができればいいと思っている。

 それなのに、この詩に、格調の高さを感じるのが、死を肯定する心ならば、その心のもちようは、克服しなければならないと思っている。

 他の方々も、この詩に、格調の高さを感じるかどうか、お聞かせいただきたいと思う。
 そして、格調の高さを感じるのなら、その理由はなんだと考えるのかも、ぜひお聞かせいただきたい。

 村野四郎は、他の詩はもちろん、詩論のなかでも、死を肯定するようなことは、いささかも書かれていない。
 この詩に格調の高さを感じ、その理由を死を受け入れることだと感じているのは、あくまで、私自身の問題なのである。
2009-04-08

おちば

カテゴリー: 日記
  おちば   三越 左千夫

おちばを ことりにして
そらへ  とばしたのは
いたずら きたかぜ

おちばを ふとんにして
はるまで ねるのは
やまの  どんぐり

おちばを さらにして
ままごと したのは
ふたりの いもうと

おちばを しおりにして
ぼくは  ほんの あいだに
あきを  しまいます



 「三越左千夫少年詩集」「三越左千夫全詩集」などの詩集がある三越左千夫は、子どもの詩をたくさん書いた詩人だ。

 「おちば」は、《条件》という考え方をとおしてみると、より深く味わうことができる詩である。

 落葉とは、いうまでもなく枯れた葉であり、なんの役にもたたないもの、むしろ厄介なものというのが、一般的な見方だ。

 その落葉を、
  きたかぜは     ことりにして     とばします。
  どんぐりは     ふとんにして     ねます。
  いもうとたちは   さらにして      ままごとをします。
  ぼくは       しおりにして     ほんのあいだにしまいます。

 つまり、ふつうは役にたたないと思われているものを、りっぱに役だつものにしているのだ。
 それだけではなく、それぞれの人物たちの、目的に合うように見ることによって、落葉に多様な価値を見いだしているのだ。

 そのときに、人物たちに合うように見る、ということが大切だ。
 どんぐりが、春まで寝るのに、落葉を皿と見るわけがない。ふとんだからこそ、春まで寝ることができるのだ。
 つまり、どんぐりは、寝るという条件があるから、落葉をふとんと見るわけである。

 これは、ほかの人物たちもおなじだ。それぞれの人物の、条件に合ったものとして、落葉を見たからこそ、役にたたないと思われていた落葉が、りっぱな価値をもって、役だつことができたのだ。

 条件にそってものを見れば、人物たちにとっても、落葉にとっても、役にたたないと思われていたものが、新たな価値をともなって、役だつものになるのだ。

 このように、ものごとをみるときの、《条件》という考え方は、ものごとの価値がわかり、さらに、あらたな価値をみいだすことのできる、わたしたちが生きるうえで、大切な考え方なのである。
2009-04-07

かお

カテゴリー: 日記
  かお   桜井 信夫

きねんしゃしんに
みんなで おさまっている

 あのこが いる
 あのこだけを みる

いくれつもならぶ
みんなの ちいさなかお

 あのこが いる
 あのこだけで いい


 桜井信夫は、1931年生まれで、「コンピューター人間」「シカのくる分校」などの著作があり、児童文学作者でもある詩人だ。

 恋がテーマの詩では、「わたしの、何才のときと同じ」と、思い描いてみるのも、楽しいのではないだろうか。

 4連でできている詩だ。
 2連と4連が、対句になっている。
 対句表現のばあい、対比や類比してみると、詩の内容が深まる。

 この詩では、2連と4連の1行目は、同じことばですが、2行目が違う。
 懐かしい記念写真を、久しぶりに見た年齢の話者のばあい、4連のように、

 〈あのこだけで いい〉

と思うだろうか。
 記念写真を撮って、出来上がった写真を、ドキドキしながらはじめて見る、そういう話者ではないだろうか。

 この道は、あのこが通った道だ。
 この花は、あのこが好きな花だ。
 ああ、この家に、あのこが住んでいる。
と思っただけで、ドキドキしてくる、初々しい恋だからこそ、

 〈いくれつもならぶ
  みんなの ちいさなかお〉

なんかどうでもいい。

 〈あのこが いる
  あのこだけで いい〉

と思ってしまうのだろう。

 となると、2連4連の1行目は、同じ

 〈あのこが いる〉

だが、記念写真が出来てきて、まず〈あのこ〉を見る。
 そして、みんなの顔が並んでいるが、〈あのこ〉を見る。
 というように、微妙に心持ちは違うのではないだろうか。

 だから、類比は対比を内包しており、対比もまた類比を内包しているのである。
2009-04-06

およぐひと

カテゴリー: 日記
  およぐひと  萩原 朔太郎

およぐひとのからだはななめにのびる、
二本の手はながくそろへてひきのばされる、
およぐひとの心臓はくらげのやうにすきとほる、
およぐひとの瞳はつりがねのひびきをききつつ、
およぐひとのたましひは水のうへの月をみる。

 萩原朔太郎は、1886年生まれで1942年になくなった、日本の代表的な詩人だ。

 〈心臓〉は、(こころ)と読ませている。〈瞳〉は、(め)と読ませている。
 全体のひらがな表記のなかに、漢字が浮き出るように使われている。
 しかも、その読みを(こころ)(め)と、やわらかな音で、読ませている。
 そのために、この詩の世界が、ゆったりとたゆたうようなイメージがある。

 この詩も、比喩が、とても効果的に使われている。
 〈心臓(こころ)〉をたとえるのに、くらげとは、なんと異質なものでたとえているのであろう。
 でも、〈およぐひと〉の〈心臓(こころ)〉が、海の生物であるくらげでたとえられたことで、〈およぐひと〉が、海の水と一体化して、解け合わさって、どこまでもどこまでも漂っているようなイメージになっている。

 しかし、漂いながらも、聞いたり見たりはしている。
 そして、〈つりがねのひびき〉を〈瞳(め)〉で聞いているし、〈たましひ〉が〈月〉を見ているのだ。

 耳で聞いたり、目で見たりするのであればあたりまえだ。
 〈瞳(め)〉で聞き、〈たましひ〉で見ると言われることで、〈およぐひと〉が、体全体で、聞いたり見たりしているような、イメージがある。
 しかも、「体」という漢字のイメージよりも、「からだ」でとひらがなでいいたくなるような、イメージがある。

 この詩を読むと、詩人とは、なんとことばの使いかたがうまいのかと、あらためて感心させられる。
 この詩で使われていますことばで、特別なことばはなに一つない。
 それなのに、一つひとつのことばのイメージが、詩全体のイメージをつむぎだし、全体のなかで、一つのことばの確かな存在感が、あますところなく発揮されている。

 現代詩は、ことばのイメージよりも、ことばの意味を重視した詩が多いようだ。
 詩全体も、意味を問いかけるような書き方になっており、難解だといわれる詩がたくさんある。

 それに対して、三好達治や萩原朔太郎の詩は、一つひとつのことばのイメージを大切にして、イメージで詩の世界を創りだしているので、読者も、詩の世界にひたりきることができる。
2009-04-05

カテゴリー: 日記
  石   草野 心平

雨に濡れて。
独り。
石がいる。
億年を蔵して。
にぶいひかりの。
もやのなかに。


 草野心平は、富士山とカエルの詩をたくさん書いた詩人だ。

 草野の詩は、そのほとんどに、各行に句点(。)を打っている。
 内容的には、読点や、それらが打ってない場合と変わらないが、視覚的には、一行一行が独立している感じで、一行一行を、そしてことばを大切にしているように思える。

 「石」の詩に描かれている石は、なんら特別な石ではない。
 ましてや、宝石などでは決してない、ふつうの石だ。
 その石を人物化して、〈いる〉といわれたとき、その石がなにか「特別」なものに思えてくる。

 詩を読むとき、感性が大切だとよくいわれる。でも、感性というのは、知識や認識に裏打ちされてこそ、より深くより豊かになっていくものである。

 地球ができてから、四十六億年といわれているが、そのなかで、生命が誕生して、さらに人間が登場するのは、数万年前のことである。

 それに対して、石は、それこそ何億年何十億年も前にできたものだろう。
 そういう知識があって、この詩を読むと、なんらへんてつもないふつうの石が、私には、「特別」な石と思えてくる。

 さらに、

  雨に濡れて              石がいる
  独り                 石がいる
  億年を蔵して             石がいる
  にぶいひかりのもやのなかに      石がいる

と、「いる」ということに、意識が集中するように書かれているので、なおさら、この石が「特別」な石と思えてくる。

 自然を大切に、ということばを聞いたとき、石を思い浮かべる人はあまりいないだろう。
 でも、この詩を読んで、自然のなかに石もあるのだと、思わずにはいられないのではないだろうか。

 いのちをもたない石に、そのような思いを抱かせるように、この詩人は、この短い詩のなかで描きだしているのだ。
2009-04-04

リンゴ

カテゴリー: 日記
  リンゴ   まど・みちお

リンゴを ひとつ
ここに  ひとつ

リンゴの
この   おおきさは
この   リンゴだけで
いっぱいだ

リンゴが ひとつ
ここに  ある
ほかには
なんにも ない

ああ   ここで
あることと
ないことが
まぶしいように
ぴったりだ



 ものが「ある」ことの不思議さを、考えさせられる詩だ。

 〈リンゴが ひとつ
  ここに  ある
  ほかには
  なんにも ない〉

 リンゴのある空間には、リンゴがある分だけ、ほかのものがあり得るはずがない。

 あるものが「ある」ということは、そのほかのものが「ない」ということである。
 あるものが「ある」ためには、そのあるもののぶんだけ、ほかのものが「ない」状態でなければならない。
 ほかのものが「ある」場合には、あるものはそこには「ない」のだ。

 なんだか、禅問答のように「ある」「ない」「ある」「ない」とくりかえしているが、ものが「ある」ということを、こんなふうに考えてみるのも面白いのではないか。

 それを、詩人まど・みちおは、

〈あることと
 ないことが
 まぶしいように
 ぴったりだ〉

と、言い表しているのである。

 「ある」と「ない」は、正反対の意味だ。
 その正反対ののものが、同じだというのではない。
 でも、

〈まぶしいように
 ぴったりだ〉

と言われたら、イメージとしては、同じと感じてしまう。

 それが、詩なのだ。
 「リンゴ」の詩の内容を、説明文で書くとしたら、子どもにもわかるように書くには、どのくらいのことばが必要かわからない。
2009-04-03

婚約

カテゴリー: 日記
  婚約   辻 征夫


鼻と鼻が
こんなに近くにあって
(こうなるともう
 しあわせなんてものじゃないんだなあ)
きみの吐く息をわたしが吸い
わたしの吐く息をきみが
吸っていたら
わたしたち
とおからず
死んでしまうのじゃないだろうか
さわやかな五月の
窓辺で
酸素欠乏症で


 辻征夫は、1939年生まれで、子どもむけのものよりも、大人むけの詩を多く書いている詩人で、「隅田川まで」「落日」などの詩集がある。

 見つめあっている二人の、息遣いまで聞こえてきそうな、瑞々しい恋の詩である。
 
〈こうなるともう
 しあわせなんてものじゃないんだなあ〉

という、()の中のことばは、話者の内声だろうが、ひらがな書きであることで、なんとなく上擦った、調子っぱずれなことばに聞こえる。

 なんで、幸せじゃないんだろうか。
 婚約した二人が、

 〈鼻と鼻が
  こんなに近くに〉

あるほど、見つめあっているのだから、幸せの最高潮にあるはずだ。

 〈死んでしまうのじゃないだろうか〉
 〈酸素欠乏症で〉

というのも、すこし大袈裟なことばである。

 この詩の中のことばは、ことばとしては幸せとは反対の意味を持つことばが書かれている。
 では、この詩の二人が、幸せではないかというと、とんでもない。
 恋の幸せ、婚約の喜びでいっぱいの二人だ。

 それは、この二人の状況を読者がイメージするからだ。
 読者は勝手なもので、自分がいいように、自分が楽しいように、イメージづくりをしてしまうのだ。
 もちろん、そのようにイメージするように、作者が書いているわけだが・・・。

 「婚約」という題名からも、幸せな二人をイメージしてしまう。
 この詩が、「病室」という題名だとしたら、幸せな二人はイメージできないだろう。

 この詩にも対比がある。
 詩に書かれていることばと、読者のイメージが、対比しているのだ。
 〈しあわせなんてものじゃない〉〈死んでしまうのじゃないだろうか〉と書かれていても、読者のイメージが、「幸せじゃないか」「死ぬわけがないじゃないか」と対比して、よりこの詩のイメージが、強調されるのである。
2009-04-02

コスモス

カテゴリー: 日記
  コスモス   佐藤 義美


みんなで みどりの 手をくんで
台風と たたかって
花を 高く まもりました。

青い空だけかとおもったら
遠い山も しずんでいました。
白と赤の花の中。

列車をひいて駅についた
電気機関車を、
コスモスが さわっています。



 佐藤 義美は、「いぬのおまわりさん」の作者で有名な、童謡や子どもの詩をたくさん書いている詩人だ。

 詩の表現方法のひとつに、擬人化がある。
 擬人化には、二つの方法がある。
 そのひとつは、植物や動物が、人間がするように、話したり考えたりして、人物化させる方法だ。
 もうひとつは、植物や動物の様子を、人間がする行動のように書いてはいても、あくまでも、植物は植物であり、動物は動物であるという書き方だ。

 「コスモス」の場合、

〈みんなで みどりの 手をくんで
 台風と たたかって
 花を 高く まもりました。〉

〈コスモスが さわっています。〉

となっているが、顔や手足を持った人物というよりも、植物であるコスモスが、人間のように見えている、という擬人化だ。

 詩を読むとき、その詩のなかの、あることばに注目して、あるいは感動して読めば、その詩のイメージを描きやすいということがある。
 「コスモス」の詩では、

〈花を 高く まもりました。〉

ということばに、感動をおぼえる。

 この〈高く〉というのは、位置的な高さよりも、「気高く」「意気高く」と言うときの、精神的なものが表されている。

 〈花を 高く〉〈高く まもりました〉

という、前後のことばとの響合いも、位置的なものよりも、精神的なものを感じさせる。

 1連では、自然の脅威とたたかったコスモス。
 2連では、風景のなかのコスモス。
 3連では、人工的な機関車と対比的に描かれているコスモス。
 どのコスモスも、「高く」自分を持ち、美しい花を守り、風景の中に生き、好奇心を失わずにいるコスモスたちだ。
2009-04-01

祖母

カテゴリー: 日記
  祖母   三好 達治

祖母は蛍をかきあつめて
桃の実のように合わせた掌の中から
沢山な蛍をくれるのだ

祖母は月光をかきあつめて
桃の実のように合わせた掌の中から
沢山な月光をくれるのだ



 詩は、イメージの文芸だといわれる。
 そのイメージをつくりあげる、だいじな要素に比喩がある。
 この「祖母」の詩も、比喩表現の豊かな詩だ。

 祖母に桃の実は合わない。ふつう、祖母といえば梅干し(失礼)だろう。
 それを、祖母の手を、桃の実でたとえたのだ。
 桃の実でたとえられた祖母の手は、瑞々しいやわらかなイメージになる。
 さらに、手ではなく、掌として、それを合わせるというところから、合掌しているイメージもうまれる。

 合掌して、蛍の光をくれる祖母。
 合掌して、月光をくれる祖母。
 神々しいまでの、祖母の姿がイメージされる。

 2連で、

〈月光をかきあつめて/月光をくれるのだ〉

となっているが、月光はかきあつめられるものではない。
 でも、1連で、

〈蛍をかきあつめて/蛍をくれるのだ〉

となっているので、そのイメージの残像が、祖母に月光をかきあつめさせることができるのである。

 だから、1連と2連を、逆にすることはできないのだ。
 はじめに、できることを言っておいて、そのイメージにあうようなできそうもないことを言っても、イメージのうえでは、できるように感じるのである。

 なぜ祖母は、蛍をくれ月光をくれるのだろうか。
 その理由は、この詩にはなにも書かれてない。
 では、読者は、納得できない思いになるだろうか。
 そんなことはない、納得する。

 祖母が、蛍をくれ月光をくれるから、納得するのだ。
 ジイジイ鳴く蝉や、ギラギラ輝く太陽の光をくれると言ったら、祖母のイメージにはあわない。
 祖母のイメージ、合掌のイメージ、蛍のイメージ、月光のイメージが、重なり合って、この詩のイメージを創りあげているのである。

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