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ET日記

毎日の思うこと

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2008年08月30日

初めての日記です

カテゴリー: 日記
 今日はもう8月30日。いろんなことがありますね。だいぶん涼しくなってきました。興味のある方は返信してください。
2008年08月30日

出会う人に思うこと

カテゴリー: 日記
 誰でもいいというと変だし、失礼ですが、誰といっしょになっても、それなりの生活があると考えれば、そんなものか。妙な言い方ですが、年齢的にも、そう選べる年齢ではありませんし。電化製品やいろんな商品のように次々新しいものが出てくるわけではありません。待っていれば、より高性能ですばらしいものが見つかるわけではありません。人間なんて性能ではないですから、そういう考え方自体が人間的ではないようにも思います。年齢が進めば、生きていくための性能は衰えていくしかないのですから。
 あと何年かたって、新しい出会いがあったとしても、その人との暮らしが果たしてどんなものか。信頼関係など、世間的な見え方とは違いますし。そんなことは、もう比べることも出来ないことです。これから先、誰か見つかるか、見つからないか。そうぴったりくる人と出会うかどうか。そして、それを確かめるのに何年かかるか。その間に、自分自身もその人自身も、変わっていくだろうし、そんなことしてたら、いくつになっているか。もう運命と思うしかない。定めと思うしかないかなあ。多くの人がたまたま出会った人と一緒に暮らしている訳ですから、そんなものかなあ。と思います。
2008年08月30日

出会う人に思うこと2

カテゴリー: 日記
 仮にもっと若かったとしても、この時代。この街。この空間。で、誰かそういう対象として出会える人など、限られた数しかありません。その中で縁のあった人がいれば、もうその人と暮らそうという気もしています。無論、最低限のある程度の許容範囲はどんな人にもあるでしょうが。誰かを探しているなら、良いところや悪いところも含めて、もうそういう運命だったと思うしかない。人間なのですから、人間的なつながりを大事にしようと思っている人ならそれでいいかなあ。その思いの深さは人によって感覚が違うし、育った環境、育った家庭文化も違うし、経験や価値観も違うし、それは仕方がないことだろうと思うけれど。人間的なつながりを大事に考えている人なら、お互い支えあえる。何か得るものも多いでしょう。
 仲の良さそうに見えるご夫婦でも、案外そうでもなかったり。何か問題を抱えている。本人同士の信頼関係だけではなくて、親の介護や子どもの成長や発達や教育、自分達の健康や病気や地域の問題や、まあ自然災害とか、そんなこともあるだろうし、いろんな問題を抱えながら生きているわけです。
 阪神大震災の時には、そういうことが表れて来たのでしょうね。心のつながり、家族のつながりとか、それと物質的な価値観の違いとか。そういうところのすれ違いみたいなものも表面に現れた。そんな中で、より信頼関係を築いた人もいるでしょうけど、深い心の傷の中での出来事を背負っている部分もあると思いますね。
 これから歳を重ねていけば、そういう問題は必ずもっと多くなる。それが人間の一生であり、人生なのでしょう。そういう「自分の生」生きている間に与えられた試練とか運命を受け入れるしかありません。ちょっと宗教的に聞こえるかもしれませんが、長い人間の歴史の中でも、みんなそうやって生きてきたのでしょう。いつどこでどんな問題が、どんな苦しい、辛い状況が生まれるか分からないし、それを受け入れるというか、体験していくしかありません。天が自分に与えた宿命だ。と思うしかないのでしょう。そういう風に考えないと、誰かと暮らすことはできません。一人で生きていくのも一つの生き方なのかもしれませんが、さらに、人間的に成長していこう、さまざまな体験を誰かと共有しようと思えば、誰かといっしょに生きていくことが必要なようにも思います

 まあ、二人で暮らしていくメリットもある。光熱費や家賃も半分になる。買い物や食事の準備やいろいろな用事も楽になる。収入も増える。その分、自分のエネルギーを別のことに使える。そういうメリットというかプラス面があるわけです。どんなチームでも人数が一人増えるわけですから、それは戦力が増えるのと同じでしょう。お互いの共通の楽しみを持つことも出来るし、喜びを共有することや支えあうことも出来るでしょう。老後になって身体が動かなくなったり、怪我や病気をしたときとか。そういうことも含めて考えれば、誰かいっしょに暮らしている人がいれば助かる。同居人だけでも助かるでしょう。
2008年08月31日

夏の終わり

カテゴリー: 日記
 いよいよ8月も終わりですね。夏が終わる。若い頃は夏は楽しい季節だった。海や山や旅行やドライブやいろいろ出かけていました。
 でも年齢とともに、温暖化の影響もあってか、夏は暑いだけといういやな季節になりましたね。最近は子ども(幼児)だって、外に出て遊びましょうとは、言わなくなっているくらいですから、人間の価値観や風習も変わっていくのでしょうね。あと50年もたてば、夏祭りなどなくなっているかもしれません。もしかしたらね。まあ、農耕民族だから、お米が育つ。そのためには、太陽の光。日光がほしいという思いは変わらないかな。
 でも、都会の生活としては、夏はあまり歓迎したくない季節のような気がします。10年先に、熱波とか、そういうことが頻繁になりそうにも思いますね。ちょっと夢がないけれどね。その分秋が待ち遠しい。そういう思いが強くなるような。そんな気がします。
 昔の人だって、立秋や中秋など、秋の訪れを待っていたところもあるでしょうから。夏はありがたい反面、台風や大雨や自然災害が起きやすい時期でもあったのでしょう。それを乗り越えたという気持ちもあったでしょうね。

 まあ、もう少し涼しくなってくれると嬉しいですね。
2008年09月02日

9月になりました

カテゴリー: 日記
 昨日、福田首相が辞任表明。何とも理解しがたいと言うのか、自民党の内部がプレッシャーになっているのでしょうね。昔みたいに派閥の領袖が会合を開いて方針を決める。そういうやり方が変わってきた。小泉劇場の遺産なのかもしれません。
 自民党のあり方の基準というか、党運営のノウハウが、分からなくなってきた。そういうことで総裁の存在感が薄くなった。権限がなくなった。その中で民主党との駆け引き。参議院でも逆転状態。
 個人的に見れば、ご苦労様。というしかないのかなあ。はったりと駆け引き。そういう意味からすれば、小沢一郎しかいない気もする。金丸信の子分だった頃から、探りを入れる。駆け引きする。はったりかます。そういう訓練ばかりしていたのだからね。
 内部抗争と外部圧力。その板ばさみ。それに耐えられなくなった。だけど政治家、総理大臣だからなあ。そこら辺が評価が分かれるかな。無責任だと言われても仕方がない。人間的にはけっこう好きだったけどね。誠実さみたいなものを感じたね。人の良いおじさん。と、近所の人だったら好感持てたかな。はったりかますタイプではなかった気がするな。

 今日、いや、昨日の感想です。
2008年09月08日

いよいよ秋ですかね

カテゴリー: 日記
 だいぶん、涼しくなってきましたね。日が落ちるのが早くなってきました。これから一日、一日、日が短くなっていくのでしょうね。
 お月見も昔は、楽しみだったのでしょう。真っ暗闇の夜空と比べて、満月は、それは嬉しかったに違いありません。居待月。宵待月。寝待月。と、いろいろありますね。ちょっと寝てから月を見る。そんなに楽しみな月だったのでしょう。明るいですからね。花鳥風月というくらいに、日本人にとってはありがたい存在だったのでしょうね。
2008年09月19日

いよいよ秋になりました

カテゴリー: 日記
前略
 いよいよ本格的に秋になって来ましたね。台風の影響もあるのでしょうけど、ずいぶん涼しくなってきました。きんもくせい。ひがん花。ススキやききょう。コスモス。秋の花がぼちぼち出てくる頃でしょうか。
 仲秋のお月見も終わりましたね。少しずつ秋が深まってきてほしい気がします。また、暑さが戻ってくるのは、健康上も歓迎しませんね。

 台風や大雨はちょっと困ってしまいますね。
明日は雨みたいですね。被害のないように願っています。

草々
2008年09月20日

京都に市電が走っていた頃1

カテゴリー: 日記
 京都の市電が廃止されて、もう何年たつのだろう。20年近くにもなるのだろうか。京阪電車も地下に入って、出町柳まで延長された。加茂川の東側は川端通りとして市内の幹線道路になり、交通渋滞は大幅に解消された。
 美術科の学生だった私は、京都によく行った。大きな展覧会は、東京上野の美術館のあとは、京都と相場が決まっていた。神戸(兵庫近代美術館)の場合もあったが、大阪にはそういう美術館がなかった。いまだにそれなりの美術展を開催できる府立美術館はないし、佐伯祐三記念館すらない。大阪は美術未開発国とでもいった感じが強い。そんなこともあって学生時代は月に一回か2ヶ月に一回は、京都に出かけるような感じだった。
 高知や富山、金沢、広島、長崎など、まだ市電が残っている都市でもそうだが、市電の乗り場は、路面にコンクリートで造られた高さ50cmほどのプラットホーム「安全地帯」。道路の幅によって狭い所もあったし、カーブにそれが造られている場所もあって、そのすぐ横を相応のスピードで車が走り抜ける光景は、何とも安全地帯とは皮肉なものに思えた。
 夏の日差しの暑い時や梅雨時、冬場の雪の日、風の強い日など、立っている方も電車の中から見ている方も何とも悲惨な風景に見えたこともあった。銀閣寺道から下がって白川通りの坂を登った辺りに車庫があって、停留所は錦林車庫前(きんりんしゃこまえ)と言った。コンクリートの円形の窪地に、それを取り囲むように放射状の線路があって、ミニSL操車場といった造り。市電廃止でバス路線になったが、名前はそのまま残っている。「名前だけ残しているのか」と思ったが、よく見ると何のことはない市バスの車庫になっただけのことだった。
 京阪三条から山科、大津、石山寺方面への京阪電車の路線も三条通りをしばらく路面の上を走っていた。普通の電車が、そのまま路面を走るから、車輪の下から電車を目の前で見上げるような形になる。夜になると、黒っぽい巨大な質量の物質が電灯を灯して動いていく。その間を車やバイクが走り、その横を人が歩いている。こういう光景は、ちょっとした異次元空間をつくり出していた。明るい客車の中の顔は、銀河鉄道の乗客のようにも見えた。蹴上を過ぎると普通の電車軌道に戻るが、山科でまた路面になり大津で更に路面のところもある。この電車の運行は、はらはらドキドキなのだろうと思ったが、そう大きな事故があったとは聞いたことがない。
 京都の市電といえば、京福電車もある。嵐山方面と鞍馬方面。この鞍馬に行く電車にはよく乗った。出町柳から、八瀬、鞍馬方面へ一両だけの電車。これこそチンチン電車という感じだった。屋根の上に斜めに一本棒が出ていて、これが架線に擦れながらつながって電力を受ける。終点の出町柳に到着すると、車掌さんが降りてきて、紐を引っ張ってぐるっと回転させ、棒の向きを反対にする。運転席が後ろと前の両方にあり、それが入れ替わって、そのまま進む。路面を走る所と軌道を走る所。修学院の辺りでは賑やかな交差点を進む所もあった。懐かしさというか何とも親しみを感じるチンチン電車という風情だった。今でもまだ健在らしい。
 宮本武蔵が吉岡一門と決闘したことで有名な、一乗寺の駅もこの電車沿いにある。そこから奥は、宝ヶ池から、八瀬方面と鞍馬方面に分岐する。ここら辺りまで来ると、まるでのどかな田舎の電車という雰囲気になる。
2008年09月20日

京都に市電が走っていた頃2

カテゴリー: 日記
 修学院に高校の同級生K君という知り合いがいた。高校時代から五木寛之に憧れていた彼は、早稲田を3年間受験した。文学部を始め、法学部、商学部、政経学部など毎年いくつかの学部を受験したが、2浪で諦めて、京都の同志社に入学してきた。修学院の駅から東側、川沿いの坂道を登って300mも行った辺り、左手奥に修学院小学校に通ずる小路の中程に彼の住んでいたアパートがあった。何度も出かけて、呑みに行ったり、いっしょにアルバイトに行ったり、徹夜で麻雀したり、よくつるんで遊んだ。二浪したことで同期の学生となじめないところもあったように思う。
 そこから坂道を倍ほど行ったところに、修学院離宮がある。残念ながら、いまだに中には入ったことがないが、何度か外から眺めて様子を伺ったことがある。東門の前に木造で茅葺きの小さなボックスがあって、皇宮警察の警官が座っていた。薄紫の制服は、普通の警察官の厳めしさはなく、何かほのぼのした雰囲気さえあった。
 桂離宮は、一般公開されていないが、修学院離宮は春と秋に公開されることもあるし、20人程度の団体で、見学希望を出すと、一ヶ月程で許可証が発行され、中を見学できる。学生時代、何度かそういうチャンスもあったのだが、その頃はそういうものにあまり興味もなかったし、ものぐさからか実際に見学したことはない。
 北西側からは、農道が離宮の中まで続いていて、庭や植木の整備など、近くの植木農家が請け負って手入れをしているようで、軽トラックがその道を中に入っていくのが見えるし、取り立てて柵がある訳でもなし、なだらかな丘の上のお庭。のどかな別荘という佇まいの趣きがある。まあ一度は中に入ってみたいものだと思っているが、まだそうはやる気持ちにはなっていない。奈良の正倉院の宝物もそうだが、宮内庁所管の物は、文化財保護法の対象外であり、重要文化財や国宝にはならない。はっきりした規定があるわけではないが戦前からの慣例でそうなっているらしい。
2008年09月20日

京都に市電が走っていた頃3

カテゴリー: 日記
 京都には、もう一人いた。現役のとき東大を受験して落ち、京都で浪人生活をしていたN君。哲学の道沿い、鹿ヶ谷の疎水の流れの山側に、浪人生専門の下宿屋があった。一年契約で賄い付き、夜の門限は8時半だったか。門限破り3回で親元に連絡がいく。予備校と契約している一年ぽっきりの下宿屋さんが、いくつかあるらしいというのを初めて知った。「鹿ヶ谷」と聞くと、昔々はどんな所だろうと思うが、確かに吉田山の裏手、銀閣寺ができる更に300年程前の平安時代は、人里離れた寂しい所だったに違いない。清盛転覆を狙う密会が行われていたのもわからないではない。
 N君は一浪して、みごと京大法学部に入学した。京福のチンチン電車、鞍馬方面の岩倉木野という駅から歩いて数分の農家の離れのような二階建て20部屋もあっただろうか、学生アパートにいた。携帯電話はおろか、まだ部屋に電話を引くことができない時代だったから、呼び出してもらったりしたが不在のことが多かった。それもそのはず、学生運動にのめり込んでいるらしいと聞き、一度京大の学生自治会の部屋に、夕方訪ねたことがある。暗い階段を下りて、地下の自治会室で「おう。ああ」と、立ち話をしたが、立て看板を作ったり、ビラを書いたりしている風だった。そんな事情で学生時代はあまり交流がなかったが、京大と京女の合同コンパというのに、一度連れて行ってもらったことがある。たまたまその日がコンパという日に遊びにいったのだ。東山七条の辺りの宴会席。偽京大生になって紛れ込み、それなりに京都の学生さんの宴会を味わった。
 京都に出かけると、だいたいコースは決まっていた。阪急四条河原町から三条寺町。ここに「ギャラリー16」という現代美術専門の画廊があって、そこから木屋町の三条大橋のたもとに「ギャラリー射手座」橋を渡って岡崎の美術館。東山三条を蹴上方面に少し登ったところに「ギャラリー、ココ」それらをぐるっと回るのが大方の道順だった。画廊には、単なる貸し画廊とそれなりのポリシーをもって企画展を開催している画廊、日本画中心、版画中心とか、作品のジャンルで壁面の造りや照明や設備も違いがあって、いくつかの分類がある。
 「ギャラリー16」今は京阪三条の北側のビルの中に移転しているが、大阪信濃橋画廊と並んで、関西の現代美術の作家を育てる感覚で活動している。どこも年配の女性が経営していた。

 京大西部講堂にもよく行った。京大生協食堂の横。関西のアングラ劇団やブルースやロックのコンサート、自主上映映画も格安で入れたし、駐車場も使い放題。いつ壊れても不思議ない木造のお寺の講堂か体育館風。屋根瓦に手描きの「もこもこ雲」のペイントが何とも手作り風で、身近に感じる存在だった。中にはイスもなく、傾斜のあるコンクリートの床。場末の映画館のすえた匂いがしたし、まったく埃っぽい中で大音響のコンサート。缶ビールとポップコーン、タバコの煙、拍手と大歓声。若者の熱気が爆発していた。
 ちょうど、関西の若者文化の興隆期だった。二条城の西、二筋目くらいに土蔵を改造した「拾得」という老舗のライブハウスがあって、若者文化を発信していたし、同じような造りの「磔磔」という新しい店が出来てそこにも出かけていった。四条河原町から下がって、細い路地を何度か曲がった仏光寺通り。最初は何と読むのかと思ったが、側までいって「たくたく」と読むらしいことがやっとわかった。演劇やブルース、ジャズ、ロック、詩の朗読、壁には版画や写真展をしていることもあって、アングラ文化の発表の場になっていた。
 そういうライブハウスにも行ったがK君とよく行ったのは、三条から四条の間の木屋町界隈。京都の学生さんの定番コース。焼き鳥や串かつ屋、赤ちょうちんの店を2、3軒飲み歩いて帰る感じだったが、いつの頃か、その頃K君が付き合っていた京女の娘がアルバイトをしていると言うので、三条木屋町のクラブにも何度か行った。貧乏学生の僕らにはかなり場違いな感じの店だったが、閉店までいても、彼はそれなりの金額しか出していなかったように思う。小さな紙に金額のメモ書きを渡されるのだが、その娘は店でけっこう重宝がられる存在だったようで、民間企業はかなりの接待費が使える時代だったから、そのおこぼれを頂いていたらしい。そんな感じで勘定は何とも大雑把だった。そういう時は、決まっていくらかのタクシー代を渡されて、私だけ修学院の彼のアパートに帰って寝た。
 同志社の体育の授業にもいったことがある。御所の北側、レンガ造りの建物が並ぶ光景は関西の私学という感じがした。図書館が新築されたばかりで、この図書館は人気があった。カフェも付いていてアカデミックな雰囲気だった。一般教養の体育の授業は、道を隔てた御所のグランド。教官もいなかったし、学生だけで二チームに分かれての野球。GパンにTシャツもいたし、必要単位のための消化授業という感じだった。側のベンチに座っていると、突然「タイム。代打」と K君が言って、私が打つ羽目になった。まあ、学生だけでやっているし、二浪していたK君の声は何の違和感もなかったのだろう。ショートゴロかそんなことになったが。まだ、のんびりした時代だった。
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